「武道についての雑感」カテゴリーアーカイブ

武道に関した雑感

達人さまざま について

本編は会員限定のページにさせて頂きましたが、みなさんの意見、議論をするためにオープンな投稿を用意します。

私自身は本当に悩ましいところです。
自分自身はこれまでの大半を田中先生の教えの下に稽古してきたので、どちらかと言えば体幹重視のスタイルであると思っています。
ただ一方で、軸を意識する動きも非常に魅力的だと思います。
お二人の先生を拝見していて、何となくたどり着く場所が同じであるなら、今は行ったり来たりしながら自分を鍛えよう、と思っています。
なので、時々変な稽古をするかもしれませんが、ご了承下さい。

達人様々

今日の稽古の記憶がなくならないうちに。
最近ありがたいことに、毎月田中先生と佐原先生の稽古に参加させて頂いています。
稽古の中で私が感じることを書いてみようかな、と思います。
一応色々な方面に配慮してメンバー限定ということで。

まず田中先生について私の感想ですが、
ともかく体幹が強い!
個人的にあまり100%とか絶対とかいう言葉は使いたくありません。
でも、田中先生の技を受けると「絶対的な体幹」というものが存在するんだということを嫌というほど痛感させられます。
体幹が絶対的なので、相手がどんなにがっちり持ってきても、力があっても揺らぐことがない。
齢87歳にして私が全く歯が立たない理由はその絶対的な体幹にあると思っています。
正直この体幹の強さは鍛錬で養えるレベルを超えているような気がします。
おそらく若いころはその体幹の強さに合わせて、膂力もあったでしょうから、本当に強かったのだと思います。
先生は現在の御自身をすっかり年老いたと嘆かれますが、体幹の強さは相変わらず健在です。
よくわからない人は副館長代理補佐さんとMightyさんに聞いてみてください。
先生を拝見していて励みになるのは、いくつになっても体幹の強さは衰えないものだ、ということです。
もちろん、継続した鍛錬が必要になることは当たり前ですが、若い力に対抗できるのが体幹の強さだと感じます。
それを鍛えることで若さに負けない強さを身につけられると思えば、これから先の稽古の励みになります。
ね、RAHさん。
現在の先生の技はその絶対的な体幹に「無駄な力が入れられない」状況の絶妙なバランスだと思います。
往年の力が無くなった今、却って体幹以外の部分に力を入れない、という感じで動かれています。それがまたとてもいやらしい。
一生懸命持ちにいっても、末端に力は入っていないは、体幹は崩れないわ、どうしようもありません。

次に佐原先生の技は
ともかく動きがやわらかい。
とはいえ、単にやわらかいのではなく、軸が非常にしっかりしている。
軸をしっかりと保ちながら、柔らかく自由に動くことで力を使わずに相手を制する。
指導を受けると、接点のセンサーを意識することを言われますが、そのためには自身の体が非常に柔軟かつ自由に動く必要があります。
しかし、動けば動くほどバランスを崩すのが人間です。
自由に動きながら軸を安定させる、非常に難しいことです。
佐原先生は柔らかく動かれながら軸を安定されていますが、静から動、柔から剛へ瞬時に転換する瞬間があります。この瞬間に田中先生と同じ体幹の強さを感じます。
強いて違いを述べるのであれば、田中先生の体幹が基質として体自身に備わっているものだとすると、佐原先生の体幹は動的な動きによって形成される機能的なものであり、鍛錬に資する部分が多いということです。
もちろん、田中先生のような体幹もある程度は鍛錬で鍛えることができると思います。

山口清吾先生の直径で柔らかいタッチを術理としながら、そのために揺るがない体幹を作る佐原先生と、揺るがない体幹を基にそれ以外の部分の脱力行う田中先生。
一見全く別なように見えて、全体としては同じ到達点にあるような気がします。
どちらがよいか、どちらを目指すかはそれぞれの自由です。
ただ、お二人の先生に投げられながら感じることは、どちらを目指しても最終的には同じところに辿りつくのだな、ということです。

自分自身はもう少し、色々と悩みながら、ふらふらしながら、Noriさんに悟られないように悶々としながら自分の技を練っていきたいと思います。

受けの重要性

先日も講習会に参加して思ったことですが、他の道場の方は受けが上手い人が多い。
先生だけでなく、みなさん上手い。
きっと普段から受けを意識した稽古をしているのだと思います。

合気道の稽古は、型稽古が基本です。
武術としての合気道の最終目的が「どんな相手に対しても技をかけること」だとしても、最初から無理な受けやちからまかせに我慢する受けを相手に稽古したのでは上達しないと考えます。
以前Eさんも書いてくれましたが、受けで大切なことは「無理はしないけれど、馴れ合いにもならない」ことだと思います。ただ、初心者はきちんとかかる感覚もない状態なので、それを上達させるためには、「きれいにかかる感覚」を体感させることが何より大切だと思います。

初心者が自分で受けるときは、まず上級者にきれいに投げてもらい、それに逆らわないように受けることで「きれいに投げられる」感覚を身に着ける。そして自分が投げる時には受けで身に着けた感覚で投げればよいのではないかと思います。そもそも最初からきちんと投げることはできないのですから、少しでも形から入ればいいのではと思うわけです。

型稽古において、無理な受けや理不尽な受けを取っていては、技をかけている方が技の形や理を体感することもできないですし、受けている方も単に「かからない」ことの自己満足になるだけで、どこが技のポイントなのか理解することはできないと思います。

私自身、武術としての合気道の目的は「誰に対しても技をかけられること」だと思っているので(この点目的が違えば過程も異なるとは思います)、時にそういう稽古をすることも必要だと思っていますが、それはあくまで基本の形ができて何が大切が理解できてからの話だと思っています。「馴れ合いはしないけれど無理もしない受け」ができるようになるためにも、まずは何が無理のない形かを身に着けることは大切だと思います。

合気道において「和」が大切にされる理由の一つではないか、とも思っています。
意義のある稽古をするためにも、相手の技術如何に関わらずきれいな受けが取れるようになること、非常に重要だと思います。

剣の稽古

夏合宿が近づいてきたこともあり、剣の稽古をしました。
なかなか普段稽古する機会が少ないので、こうした機会にしっかり稽古できればと思います。

特に最近は通常稽古は参加人数が非常に多いため(まず水曜日の稽古では不可能)、
普段の稽古では、土曜日の午後の稽古時に剣をやることが多いので、午後稽古への出席者とそうでない人でレベルの差が随分あります。

以前別のところでも書きましたので割愛しますが、剣の理は体術にとても役に立つと思っています。
その意味でも稽古の一つの方法として剣術を稽古することはよいことだと思います。

名古屋至誠館では鹿島の剣をおもに稽古します。
剣の段階としてとりあえず
1.剣の持ち方、礼法、抜き方、構え方を覚える
2.切り割り(剣を「振る」こと)を覚える
3.袈裟切り(剣を「扱う」こと)を覚える
4.八方切り(剣と足の捌きの連関)を覚える
5.切り結び(相手との剣の結び)を覚える
6.基本太刀1(剣術の基本の形)を覚える
7.基本太刀2(剣術の理)を覚える
8.基本太刀3(力でなく剣を振る)ことを覚える
9.裏太刀1(体幹と剣の連動)を覚える
10.裏太刀2(手を使わず腰と剣の連動)を覚える
11.裏太刀3(間)を覚える
12.相心太刀1(足を動かしての打ち込み)を覚える
13.相心太刀2(動きの中での軸と重心の安定)を覚える
14.実戦太刀1(剛柔と間)を覚える
15.実戦太刀2(起こりと瞬間)を覚える
16.実戦太刀3(脱力と力の集約)を覚える
17.合戦太刀
という感じでしょうか。

剣の稽古方として組太刀の順番が決まっているのには意味があります。
「自分はこれが好き」といってやるものとやらないものを選り好みすると上達しません。
特に男性は基本太刀の次に相心太刀をやるのはやりやすいですが、裏太刀で学ぶべき点を落として先に進むと、本来の相心の理である「足」や「軸」への意識が無くなってしまいます。
学生にも多いですが、踏ん張って力を入れて形になっているから満足してしまう、のでは折角剣をやっている意味がありません。
逆に女性は相心の打ち込みが苦手で避ける人も多いです。しっかりした腰と軸ができればしっかりした打ち込みができるのですが、軸が安定していないと力に負けてしまうのでつい避けてしまいがちです。

組太刀の技は型稽古なので、実際には利かないように感じることも多々あります。でも、きちんと稽古すればちゃんと身に付きます。多分。
なかなかストレスが溜まる稽古も多いと思いますが、頑張って稽古しましょう。

子どもに合気道を習わせる目的2

子どもに合気道を習わせる目的として第2に考えられるのが精神力、忍耐力をつけさせることだと思います。
私自身子どもにこうしたものを身に着けて欲しくて、小さいころから空手を習わせました。

精神力・忍耐力も礼儀同様わざわざそのための練習をしなくても、武道においては通常の稽古の中で自然と培われていくものであると思います。
また、稽古の内容や道場での振る舞い方などについてきちんとさせれば、どうしても身についていくと思います。

しかし一方で実はもっとも難しいのが精神力と忍耐力の向上ではないかと思います。精神力や忍耐力を鍛えるにあたっては
どうしても精神的なストレスや苦痛を伴うことが多々あります。私自身稽古は楽しくやりたいタイプなので、できれば稽古中に子どもたちを叱りたくはありません。名古屋至誠館は稽古中に遊ぶ子どもはほとんどいないので、せいぜいのんびりやっている子に激を飛ばすくらいですが、やはりそれはやらなければいけないように思っています。

道場としてもリスクは大きく、先の礼儀等と併せて考えると、厳しすぎる道場はどうしてもやめる子も多くなってしまいます。そこで、できるだけこの第2の点(場合によっては第1の点も)には目をつむって楽しく稽古することを最優先に考える道場も多いのではないかと思います。ただ、うちの道場の場合保護者から見て第2の目的の占めるウエイトは決して小さくないことと、子ども達の雰囲気から厳しい稽古をしても楽しく稽古してくれていること、から少し負荷の大きい稽古や子どもたちにとってややつらい稽古もこなせる環境が整っています。例えば、今では誰も大変だと思わなくなりましたし、また新しく入ってくる子ども達もそれが普通だと思っていますが、「四股20回、円描き10回、体の転換200回」は普通ではないと思います。

でも、不思議につらくてやめる子も泣き出す子もいないんですよね。子どもたちの健やかさと明るさ、雰囲気に感謝感謝です。

子どもに合気道を習わせる目的1

日曜日は久しぶりの完全休日。
今週は畑の手入れもないし、雑用も特になし。
ちょっとゆっくりしてみました。

自分の子どもも生意気に大きくなって、「子ども」という感じではなくなってきました。
でも道場はいつもリアルタイムで新しい子ども達が入ってきます。子ども達と一緒に稽古するためにもいつも考え続ける必要があると思っています。

親が子どもに合気道(武道)を習わせる理由を考えてみました。
1.礼儀やしつけのため
2.精神力や忍耐力を鍛えるため
3.合気道の技術を身につけさせるため
4.護身のため

必ずしも理由は一つとは限らないと思いますが、まず礼儀やしつけを習わせるのに武道は非常に向いていると思います。
ただ、これらのものを習うのであれば武道でなくても構わないわけですし、身体を動かすものである必要もありません。
その中で運動系かつ武道を習わせてよかったと思うとすればどういう点なのだろうか、考えさせられます。

例えば子ども(特に小さくなればなるほど)本人にとって「礼儀」はそもそも必要なものではありません。子どもの世界に力関係はあっても上下関係はないでしょうし、大人のような社会的な儀礼などもありません。もちろん将来のことを考えればきちんとした挨拶ができるようになったり、礼儀正しくなることは非常に良いことだと思います。でも、本人にとっては特にやりたくもないことをさせられるわけです。気が乗るはずがありません。

そんな中で武道の良いところは、その稽古の成り立ちや流れの中に自然と礼儀やしつけに関わる行為が含まれているところにあると思います。子どもがそれを「礼儀」と意識しないままに稽古の一つの作法として自然と礼儀が身についていくのは武道の魅力だと思います。

もう一つは武道の非日常性にあると思います。習い事がその子の日常に近ければ近いほど、普段の「地」が出ます。合気道の場合は普段着から道着に着替えて普段はほとんど行わない稽古を行います。そのため、稽古に際して意識の切り替えがおこないやすいのではないかと思います。日常と意識が切り替わることで、日常生活の中ではやらない礼儀作法もおこないやすくなる(なんでそんなことしなければならないの? という疑問を持ちにくくなる)のではないかと思います。

とはいえそれはあくまで理屈であって、やはり周囲の大人が稽古中の礼儀や作法について厳しくしなければ効果は上がりません。しかし厳しくしすぎると、もともと「何のために?」という疑問を持つ行為なのですから子どもにとっては強いストレスになります。あくまで厳しくすることを基本にしながら、子ども達が嫌にならないように稽古をする、とても難しいことだと思います。
いつもその点に気を遣いながら子どもたちの稽古を見てくれる大人の人たちには感謝しています。

諸手取2

諸手取りの続きです。

先の投稿でも述べましたが、諸手取りになるシチュエーションは私の思いつく限りでは武器取りではないかと思います(いつものことですが、他に思いつかないので現段階ではこれに限定)。
とすると、諸手取りの技は何かというのが次の悩みどころかと思います。

例えば武器を持っている側からすれば、諸手で取られている手を切る(振りほどく)のが一番よい形です。そうすれば本来の武器を存分に使うことができます。
そうなんです。ここで悩むのが相手の諸手取りを切って「技」をかける必要があるか、ということなのです。
相手の手を切ったのであれば、武器を使えばいいわけですから(その方が圧倒的に有利だと考えます)、敢えて技をかける必要はないように思えます。またそういう状況で相手は容易に手を振りほどかせてはくれないとも思います。
もちろん「武器を抑える」以外の諸手取りのシチュエーションであれば、手を振りほどいた上に技をかけるというのが効果的な場合もあると思います。

さて、以上の状況を前提に技を考えるとすると、諸手取りの技はがっちりと掴まれた手を振りほどかない(振りほどけない)状態でどのように技をかけるか、ということになるような気がします。
第一の考え方としては、圧倒的に有利な状況を利用して「掴まれる」のではなく「掴ませる」ことがあると思います。相手の武器を抑えざるを得ない相手としては、武器を餌に誘われてもそれに乗らざるを得ないでしょう。そこで、武器を持った手を持たせることで相手の全体的な動きを制約した上で技をかける。先に述べた武器を使った方が圧倒的に有利なのですが、相手がそんなに自由に武器を使わせてくれないとすれば次善策として考えられると思います。
第二の考え方は、相手に手を抑えられてしまった場合です。大半の稽古はこのシチュエーションで行われると思うのですが、相手の力をどのように捌いたり流したりするのかはかなり難しいです。

最初にも書きましたが、こんな風に考えながら現在自分の稽古をしています。
みなさんも時には色々考えてみるのもよいのではないでしょうか。
反復の稽古が何より大切なのは間違いないですが、術理についての考察もよりよい反復稽古をするために良いのではないでしょうか。

諸手取1

前のブログでも少し触れましたが、最近田中先生とS先生に教えていただく機会があり、その中で何度か諸手取りを稽古しました。
もともと諸手取りは関心が強い形なので、今回先生方に教えていただいて自分なりに色々考えてみました。

そもそも諸手取りの状況を考えると結構悩ましいです。
通常の攻撃で考えると、特に打撃系の方からすると諸手取り、というのはとても違和感があるのではないかと思います。
相手の手を掴むかどうかは別として、例えば相手の手を捌いた場合でも両手で相手の手を抑えることはほぼありません。
名古屋至誠館で言えば、RAHさんも、AFWさんも、日拳T君も、極真ソルジャーさんも、少林寺I先輩も、ちびすけも、みんな打撃をやっているメンバーにしてみれば、最大の武器である拳を塞いでまで諸手取りをすることはほとんどないと思われます。

では、それでも諸手取りをするとするとどんな状況か?
私が考える状況としては、「相手が武器を持っている」状況ではないかと思います。
相手が手に武器を持っている場合、その武器で攻撃されてはたまりません。
例えば私が短刀を手に持っているとします。極真ソルジャーさんの拳がどんなに危険でも、相打ち勝負で素手対担当で攻撃しあったらさすがに素手に分が悪いでしょう。何しろ短刀で刺せば生命の危険があるわけですから。
生命のリスクが発生するのであれば、場合によっては自らの武器が封じられても諸手で相手の手を抑えに行く可能性はあるわけです。

そう考えると、諸手取りのシチュエーションは相手が素手であっても武器を持っていても、「絶対に相手の手を離さない」という強い意志の下に行われているように考えます。
これを前提とすると、がっちり本気で持ってきた相手にどのように対処するかが諸手取りの技であり、そう簡単に相手の手をはずすことができないことが術理になるように思います。もちろんどんな状況においても、相手の手をほどければ最も有利になれるわけですが、技術を突き詰めるという考え方をするのであれば、諸手に対する技は手を切るよりも、どのように手を持たれた状態から相手を崩してあるいは制していくか、というのがさしあたっての目標になるのではないかと思います。この点にはきっとEさんやNoriさんに同意してもらえると思います。

ウイスキーにより続く・・・

私の武道観と道場の武道観

当たり前と言えば当たり前ですが、私自身が抱いている武道観があります。
「武道とはかくあるべきだ」「こういうものを武道という」という考え方です。
ここでは細かくは述べませんが、これまでもずっと根本的には変わらない武道観に基づいて稽古を続けてきました。

なんでこんなことを書いているんだ、といえば先週末にある先生とお話する機会があって、そこで武道に関する考え方をお話する機会があったからです。普段あまり道場ではそんな話をしないのですが。話をする中で、久しぶりに自分自身の武道観を見つめなおすきっかけを頂いて、家に帰る道でいろいろと考えました。

道場を立ち上げてからはや2年半。アッという間に仲間も増えて日々楽しく稽古できています。
ただ、これは最初からずっとスローガンとして掲げてきたように名古屋至誠館は「みんなの道場」であって「私の道場」ではありません。
言い換えれば私の武道観の下に皆が一つの考え方に従って稽古をする場所だとは考えておりません。
もちろん、道場主の武道観を絶対的に学ぶ道場を否定するつもりは毛頭ありません。そういう道場の方が良い点も非常にたくさんあります。ただ、私にはそういう方針・主義は取れないというだけです。
なので、私と異なる武道観で合気道に取り組む門人がいても大歓迎ですし、それを否定する気はありません。合気道に何より精神性を求める人、技術の追究を求める人、合気道を通じて仲間と連帯感を紡ごうとする人、皆がそれぞれの武道観に従って稽古をすればいいと思いますし、それができる道場であって欲しいと思っています。

そして、それゆえに私自身の武道観が道場の主流にならないことから、時々悩むこともあります。私自身はできる限り自分の武道観を強調しないようにしています。立場上私が(婉曲的な言い方であっても)自分の武道観を強調すれば、その影響力は大きくなってしまいます。それは私の望む道場のあり方に反するので、普段は最低限の(別の言い方をすれば同じ場所で稽古をするのに不可欠な程度のルール)としての武道観しか話さないようにしています。

道場が大きくなって、皆がそれぞれの目的で稽古できるようになったことは、その中で改めて私自身の稽古を見つめなおす必要があることを意味します。良い意味で道場がしっかりしてきたからこそ生まれる悩みだと思っています。
とはいえ、私自身は道場主であると同時に、自分自身の合気道を目指すものでもあります。
門人の皆さんのお力添えをお借りしつつ、自らの武道も目指すという段階に来たのかな、と改めて思ったので、こんな風に書いてみました。

E的 技術論

E個人としては、合気道の技は、技術的な理論だけなら特段難しいモノとは思っていない。

達人と呼ばれる高齢者が可能なモノは、複雑な事ではないからである。

シンプルで少ない情報の入力と、単純化された反射に近い動作で成立するモノなのは逆説的に明確なのだ。

しかし簡単とは言え、何が難しいかと言うと、「手順」と「力加減の精密」なコントロールが難しい。

特に、「手順」はケーキを焼くのに似ていて、生クリームとイチゴのデコレーションした後に、オーブンに入れたらショートケーキが永久に出来ないのと同じくらい技が別物になってしまう。

そのくらいの違いがある。

技が出来ない人を多く見てきているが、その多くが先輩の指摘を守らず適当な技になっている。

いろんな先輩から、指摘された全てダメ出しを解決する線や点の様な窮屈な動きに技の真理がある。

精密に身体を使うことで、小さな力を大きくして、強者に対抗するのが弱者の技である。

弱者が手抜きの技で、強者に勝てる訳はないのだ。

丁寧に、精密に、正しい手順で行う。

それを追い求めなければ、上達は無いと思います。

 

合気道を教えること【於保護者体験会2】

後輩に合気道を教えるという経験は長いですが、人から先生と呼ばれて合気道を教えるようになってはまだ10年も経ていない若輩者です。

他人に、特に子どもや初心者に合気道を教える、ということは本当に難しい!
未だに何がよくて何が悪いか、何が正しくて何が間違っているか、何が早道で何が遠回りかよくわかりません。
なので、どうやって子どもや初心者に合気道を教えたらいいか本当に自信はありません。
ただ、自信はなくてもいろいろ考えてできるだけ教える相手が上達できるようにいつも努力はしているつもりです。その点は(認めてくださいではなく、)ご容赦下さい。

そんな中で思うことは、そういう相手にどのように合気道を教えるか悩むことは、事前に悩むことも稽古をやりながら悩むことも、稽古を終えた後に反省することも非常に役に立っていると思います。
前の初心者に技をかける点について感じているジレンマに触れましたが、子どもに対しても同じようなジレンマを感じることは多々あります。

子どもに技を教えることは直接に自分の技を向上させることになるとは思っていません。ただ、普段自分が自分自身の向上の為に創意工夫しているのとは別の視点を手に入れたり困難や工夫をすることができるよい機会だと思います。
もちろん、合気道を稽古する者である以上、何より自分の向上が重要(第一目的)なので教えるばかりというのは嫌になってしまいますが。
合気道に限らず、広い視点やさまざまな角度から物事を見たり、検討することはよいことだと思います。

教えるという立場に立つようになってはっきりわかることですが、初心者に教えるのに比べて有段者に教えるのは本当に簡単です。経験によって蓄積された共通認識や感覚を前提とすることができるので、説明が拙くても理解してくれます。それに比べて初心者にはそれがないですから、どこから教えればよいかすら手探りで探ることになります。
それゆえに、もう一度自分のこれまで通ってきた過程を振り返らざるを得なくなるのであり、そこに原点への回帰もあるのではないかと思います。そういう意味で、初心者に合気道を教えることは非常によい経験だと思っています(もちろん大変であることと、そればかりでは嫌になってしまうというのは先に述べた通りですが)。

いつもは体験や、新入門者への指導は他の有段者の方がおこなってくれます。だから今回の体験会では一から自分で考えてみようと思いました。当日も話をしましたが二週間位前から、ずっと考え続けて、当日も修正を入れながら、終わった時には知恵熱がでるかと思いました。

結構大変だったんです。でも、色々な意味で久しぶりに忘れていた感覚を思い出せてよかったと思っています。

未経験者に技をかける【於保護者体験会1】

蒼氷さんから、「保護者=未経験者に合気道を体験してもらう」ことと「合気道を教える」「合気道技を素人にかける」ことについてどう考えるか、という質問をいただきました。
ありがとうございます。
折角なので、個人宛ではなくここに書いてみようかな、と思います。

まずは具体的な内容からの方が入りやすいので、タイトルの通り。
黒帯になった頃からずっと思っているのですが、合気道の初心者に技をかけるのは非常に難しいと思っています。

例えば今回の保護者の皆さんのように、そもそも「子どもが体験しているものを体験したい」という目的で合気道をやってみる場合においては、合気道の技術的な側面への関心はあっても合気道の武道としての側面への関心は薄いわけです。
具体的に述べると、本来「武道」は相手を攻撃するという敵の加害意思に対抗するものです。なので、例えば手を取るという行為にしても、それは「技をかけてもらうために手を取る」わけではなく「相手の攻撃を防ぐ」「相手に攻撃を仕掛ける」「相手を抑え込む」など積極的な攻撃意思を持って行われるはずです。その両者の相違は武道を修練している人であれば誰でもわかると思います。
平たく言えばこちらが技をかける時にどのように反応するか、という形になったりして現れるわけです。相手を制する意思のない人にとっては、技をかけられたら痛い思いをしないうちに手を放します。最初から痛くなったら手を放そうと思って持つわけですから、逃げることに対しての用意は周到であり、また手を放した後に相手から攻撃を受けることも想定はしていません。

合気道を始めて以来ずっとこの点は疑問として消えないのですが、そういう相手に対しても有効に技はかけることができるが自分が未熟なのでかけられないのか、それとも相手の積極的な攻撃意思が前提として存在しないと技はかからないのか、未だに悶々としています。
もちろん、逃げる相手の手や手首をつかんで投げれば投げることはできます。少し合気道ができるようになって相手を投げたくてたまらない位の時期にはよく、切れた手を掴んだりして無理やり投げたりしますが、それは力で投げているのでやはり合気道の本質とは違う気がします(そもそも自分から掴んだ場合どうしても投げ方も力を入れた形になるわけですが、そういう投げ方があまり利かないのは皆さんご存知の通り)。

というわけで、初心者や普段自分達が当然の前提として考えているものをそもそも共有していない人に技をかけることは非常に難しいと思います。ただ、反対に普段の稽古ではあまりに前提とするものが固定化されすぎていて、もしかするとかからないような技までかかってしまうこともまた事実だと思います。
よく冗談で私が技をかけた後に「お弟子さんが上手く受けているからかかるんだ」と戯れて言うことがありますが、あながち全部冗談なわけではないと思っています。合気道という設定下で稽古をするうちに、身体的な共通認識・前提論が支配的になって、「本来のありうる状況」よりも効率的に技がかかってしまうことは往々にしてあると思います。いわゆる馴れ合いというやつです。

問題はこの時点で、武道としての実践論あるいは精神論を唱えて初心者的な振る舞いを否定・排除する(それゆえそういう相手に技をかけることはそもそも考えないし論じない)考え方もありますし、それはそれで非常に正論だと思います。
これは完全に私見ですしむしろ少数派に属すると思いますが、総体的な武道としての合気道から技術的な側面を抽出して考えることは可能であり、また稽古・鍛錬という点では全く無意味ではないと考えます。それゆえ、上記のような初心者に対して技術的にどこまで技をかけることが可能かを追究するのは非常に意義あることだと思いますし、自分としてはとても勉強になると思っています。経験者同士、馴れ合い中で失われたものを体験できる機会は本当に稀だと思います。
今回の体験会も本当に初心者しかも大半が女性という条件で技をかけるのはとても稽古になりました。おそらく普段の稽古で技をかけるときの数倍は意識を集中したような気がします。初心者というのは、本当に稽古を積めば積むほど出会うことが少なくなる非常に価値ある鑑だと思います。

親子で合気道

今回のブログは偏見かもしれないので、最初に謝っておきます。
あくまで個人的な考えです。すみません。

プチやっている仕事柄もあるのですが、女性がうらやましいと思うことがあります。
それは子どもが男であれ、女であれ、子どもと母の繋がりは本当に強い、ということです。
もちろん、その分子どものことで悩み、文字通り身を切られる思いをされることもあると思うのですが、どんなに男が頑張っても、なかなか母子並の繋がりを持つことはできないような気がします。

特に男親と娘は本当に難しいかな、と思っています。
そんな中で少しでも、子どもと一緒の時間を過ごしたい、少しでも分かり合えるものを持ちたい、という気持ちで小さなころから自分の娘には武道をやらせました。
正直、ずっとつづけてくれるかどうかは不安でしたが、初めて9年今でも空手と合気道に楽しく出かけてくれることは本当にありがたいと思っています。

うちで親子で合気道をやられている方をみても、親子で合気道をすることはきっとマイナスではないだろうと確信しています。
最近、親子で体験に来られた方が何組かいらっしゃいましたが、親子で合気道をはじめることはきっと素晴らしいことだと思います。是非一緒に始めてみてください。

そして、今親だけ、子どもだけが合気道をやっている方にも、一緒にやる楽しさは本当に言葉に表せません。今からでも十分間に合いますよ。

保護者の見学について

保護者体験会を前に思ったことを。

うちの道場は保護者の方がたくさん稽古の見学をしてくれます。
ちなみに土曜日に隣で稽古している剣道道場は保護者の見学が必須だそうです。
ちょっとそこまではお願いできないのですが、できれば小学生の保護者の方は月一度くらいはお子さんの稽古を見てもらえるとありがたいです。

お子さんの成長する姿に目を細めていいですし、私の指導を厳しくチェックしてもいいですし、子どもを監督してもいいです。
親子で稽古している門人は合気道を通して、普通よりはちょっと親密? あるいは強い親子関係ができているのではないかと思っています。

親の威厳があるとか、親が上手いとかそういうのではなく、一緒に稽古したりイベントに参加していると「親子」というくくり以外に、「道場の仲間」というくくりができます。親子であることには変わりないですが、そこに普通の生活では生まれない「仲間」という別の繋がりができると、親も子も(特に子どもが)違った目で親を見るのではないかと思います。

言い方を変えると、親子関係がどうしても縦の関係になるのに対して、道場の仲間は横の関係です。普通は親を縦関係でしかみないので、思春期にはそこから自立したい気持ちが強くなって反抗的になるのですが、そこに仲間としての横の目線が加わると「道場では別に親が偉いわけではないし」という気持ちが生まれたり、親子が同じ場所でそれぞれ自分自身の固有の立場を持っているとその視点から冷静に親を見ることもできるのではないかと思います。

私自身もそうですが、年齢の違いもあってなかなか子どもと同じことをすることはありません。例えば、子どもに「倒立できる?」と聞かれても五十肩で無理!
そこで「昔はできたけれど・・」といっても子どもには通じません。
しかし、合気道でバンバン稽古していると「親も真剣に頑張っているんだ」と思ってくれているようです(多分)。そんなリアルタイムの姿をお互いに確認できるのも一緒に稽古するよさではないかと思います。

そんなこともあって、本当は一緒に稽古できるとベストでしょうが、何しろ武道なので痛いです。
そこで、せめてできれば稽古を見学することで、子どもとの共通な空間・水平な関係を持っていただければと思っています。

今回の体験会もきっと子どもからは「お父さんお母さんは口だけじゃなくて、身体でも合気道を理解しようとしているんだな」と思ってくれるはずです。

まあ、合気道はやると楽しいんです。結局は!

基本稽古の大切さ

副館長代理補佐さんの稽古日誌にもありましたが、子ども達の技の迷いは身体の動きの刷り込みが不十分であることが原因だと思います。

技はやはり身体に刷り込まなければ上手くできないと思います。
そのためにもっとも大切なことは「基本の反復」です。
その中でも個人的に特に大切だと考えるのは「体の転換」と「運足」です。

この二つの基本動作はすべての技の中核にあると思うので、何よりも基本に忠実に徹底的に反復して稽古することが大切だと考えます。
基礎への徹底的なこだわりがあってこそ、揺るがない技の土台を作り上げることができる。もちろん技の中で基礎を確認することも大切ですが、やはりまず基礎を練ることが重要かと思います。

是非子どもたちにもそういう方向で稽古してほしいと思います。

女性と合気道

武道というとどうしても「痛い」「怖い」と思い込んでしまいがちです。でも、合気道はそうではないのです。さまざまな年代の女性にとって合気道は「魅力的」な武道なのです。
このページを読むだけなら痛くも怖くもありません。
まずは以下のページをじっくりごらんになって、女性にとって合気道がどんなものか感じてみて下さい。

合気道を習い始めた理由は?
合気道ってどんなものですか?
やっぱり女性にも教えてもらいたい!
本当に女性でも上手くなれますか?
年齢に負けない身体をめざして!
何歳からはじめて何歳までやれますか?
合気道は美容効果がありますか?
ライフスタイルに合わせた稽古ができます!
合気道に出会って(体験談)

剣の稽古

気がついている門人の方もいると思いますが、昨年から剣の稽古の回数を増やすようにしました。
剣の稽古は合気道とは直接関係ありませんが、体幹の錬成や身体の使い方を練るのに非常に役に立ちます。

名古屋至誠館では、鹿島の剣を学ぶことでそうした身体づくりに役立てたいと考えてきました。
しかし設立間もないころは、教える側の数が少ないこと、加えて私自身はそこまで剣の稽古をしてきているわけではないため、基本的な剣の振り方を少し稽古できる程度でした。
もちろんこれも十分に役には立つのですが、せっかく稽古するのであれば、実際の剣術まで稽古できた方がモチベーションも上がるし、より理を理解できます。

というわけで、設立1年目の課題は
・私よりもきちんと剣を教えることができる人の確保
・上級者から下に順番に剣を教えることができるようにすること
でした。

これは私の個人的なこだわりかもしれませんが、剣は道具を使うこと、怪我をするリスクが大きいことからもできる限り厳しく高いレベルの指導者に指導してほしいと思っています。

その点、第一の指導者の確保という点は修武館の人々はじめ、名古屋に立ち寄って稽古に参加してくれる東大OBの皆さん、金沢大OBのみなさんがしょっちゅう稽古に参加してくれた結果、広く深く剣の稽古ができるようになったと思っています。

第二の点については、指導する人が増えたことで個々に剣の稽古をすることができるようになり、有段者には実戦太刀、相心太刀を、中級者には裏太刀を、初級者には基本太刀をそれぞれ稽古できるようになりました。

また一人の指導者のみでなく、複数の人に教えてもらうことによって幅のある稽古ができるようになったと思います。私自身もいろいろな人が指導しているところを見学させていただくことで、自分の足りないところやよりよい指導の仕方を学ばせて頂いています。この点でも本当にありがたいと思っています。
これまでは、学ぶ一方だった有段者が自分自身でも教えるようになれたのも、稽古に参加してくれるゲストの方々のおかげだと思っています。

今では、白帯以外ほとんどの子どもが基本太刀、裏太刀を学べるようになってました。
今年はさらにしっかりと剣を稽古できる環境を整備することを目標の一つにしたいと考えています。

名古屋至誠館の特徴 子ども編

まもなく名古屋至誠館設立2周年となります。
修武館は、2周年に記念行事をしましたが、今のところ特に予定はありません。
ただ、この2年間を振り返って、ついでに過去のブログも振り返って、あらためて今の名古屋至誠館の特徴について少し書いてみたいなと思います。

まずは、自分のスタンスについて
道場設立間もない時期に、子どもの習い事子どもの集中力子どもだまし子どもと武道2子どもと武道1子どもの限界、といった内容のブログを書いていました。
・・・よし大丈夫。
今のところ全く自分自身の中で基本方針は変わっていません。また子どもに対する接し方もおそらく最初に目した形で接することができているのではないかと思います。

何より声を大にして言いたいことは、
・本当にいい子たちが集まってくれた
ということです。現在名古屋至誠館には20人余りの子どもたちがいますが、本当に頼りになるしっかりした子どもたちが集ってくれました。

私は性格的にも理念として掲げた目標に近づくため、子どもたちに厳しく接しますし、稽古も厳しくします。
しかし、私がどんなに素晴らしい理想や理念を抱いていても、それを一緒に目指してくれる子どもたちがいなければ絵にかいた餅になってしまいます。
稽古をする際に「これ以上は怪我をするかもしれないからやめよう」ということは考えても、「これ以上厳しくしたらやめてしまうかもしれないからここまでにしよう」ということは全く考えません(
だから時々準備運動で四股を50回踏んだりするわけです)。
それを楽しみながらこなしてしまう子どもたちがいるから厳しい稽古が成り立つのだと思っています。

もちろん、最初からすべての子どもがそんな風にできるわけではありません。
特に入って間もない子どもは、とまどうことも不安なことも多いと思います。
そんな時に周囲の先輩たちが言われないでも、親切にサポートしてくれるような形ができあがっています。
子どもたちを本当に教えるのは子どもたち」だと思っています。
もちろん、私や有段者も教えますが、子どもの目線で子どもたちに自然に教えることができるのは、やはり子どもたちです。

年長さんから中学3年生まで10学年(高校生は大人扱いなので)の子どもたちが、年長者としてそして道場の先輩として、後輩や新しい子どもたちにお手本を見せることができる、そんなとてもありがたい環境を持つことができていることに心から感謝しています。
そんな子どもたちの姿勢とまとまりが名古屋至誠館のもっとも大きな特徴の一つだ、と思います。

そのことは、毎年何人ものあたらしい子どもの仲間が増えていることからもきっと間違いないと思っています。

稽古時の注意点について2

初心者と稽古する際の具体的な注意点です。

1.挨拶をとにかくしっかりする。
道場に入る時の礼、最初と最後の礼、教えてもらった時の礼、ともかく礼はしっかりすることです。武道を稽古するに当たって気持ちを引き締めることは上達するためにも、怪我をしないためにももっとも大切なことです。だらだらとした稽古をしないこと、そういう見本を見せないこと、何よりも心がけてください。

2.構えと残心
最初の構えがダラダラしている子どもがたくさんいます。武道の多くは最終的には構えを崩すあるいは構えないで戦えるようになることを目標にしますが、最初からそんなことはできません。
よい形を少しでも早く身につけるように考え出されてきたのが「型」です。その一番基本は最初の構えと残心です。合気道の基本の構えである「半身」がしっかりしていない人は本当に上達しません。何よりも最初の構えを注意するようにしてください。

3.間合い
これも非常に雑な人がいます。名古屋至誠館はせっかく打撃のスペシャリストが多いのですから、もっと間合いにシビアになってほしいと思います。間合いについては実は最初はいい加減でもなんとかなってしまいます。しかし、間合いがいい加減になると後々その癖を直すのは非常に困難になります。できれば最初から間合いを意識した方が技も早く上達します。

4.足の位置
合気道でもっとも重要なのは足と下半身だと私は考えます。構えの足の位置、技に入る時の足の位置、右左の足の動かし方、足の位置はきれいに技ができるようになるために何よりも重要な要素です。間違った足の位置ではいくら技を稽古しても上達しないと思います。上級者は初心者がいつも自分の足の位置を見ていると思って、まずは自分の足の位置から意識するようにしてください。足の位置については、ある程度経験している人でもいい加減な場合が多いです。

他にもまだまだ列挙できますが、一度に多くをやりすぎると混乱すると思います。
また、必要に応じて伝えますが、まずは何より上の点に気をつけて初心者と稽古するようにしてください。
上記の他にも大切だと思われるものがあれば、是非アップしてください。