「武道についての雑感」カテゴリーアーカイブ

武道に関した雑感

剣の稽古

今回は合気道と違う話です。

なんだかんだ言いながら合気道も剣もずいぶん永く稽古してきました。

それで今でも、いや今更ながらに思うことは得物を使うことの難しさです。
得物を使う場合の目標は手足と同じように使えるようになることです。けれども私たちは実際に得物をもって稽古する機会は少ないため、どうしても「もったつもり」での稽古になることが多いです。

適切な例かどうかわかりませんが、素手て剣の理を考えることは、同じ二輪だから自転車にのれるならバイクにも乗れる、というのと同じ理屈だと思っています。

断っておきますが、ずっと実際に剣をもって稽古されてきた先生方が素手の稽古の際に剣の理をとかれることはまったくもって正しいと思っています。

先の例ですが、バイクは自転車とは馬力が違います。自転車に乗れる人であってもバイクのスロットル(アクセル)を強気で吹かすことはできません。怖いからです。
剣も同じで、実際に実物を持てばその鋭利さに竦み上がります。

剣の稽古ではそのことを肝に命じながら稽古をすることがとても大切だと思っています。
実際に自分が稽古するようになって痛感するのは、ちゃんばらみたいに、自由に剣は動かせない、ということです。

みなさんにも同じ意識を共有して欲しいと思うとともに、剣の持つ怖さを知って、慎重な稽古をして欲しいと思います。

流れる水

先日火曜日に先生の稽古に参加したときのお話。

先生から「流水不腐」についてお話がありました。
流水不腐」とは「流れる水は淀むことなく腐らない」という意味で、色々な場面で使われる言葉のようですが、先生は「慢心」についてお話される際にその対極の観念としてお話くださいました。

武道家にとって慢心は天敵です。
慢心しないためにも、常に流水の中にわが身をおくことの大切さを感じました。
「自分のやり方が正しい」
「自分はもう十分に上手い」という気持ちが生じて心の中の水がよどんでいてもいけないでしょうし、
自らが置かれた環境に新しい流れが入ってこないと、これもまた知らないうちに水が濁って腐るかもしれません。
かといって目新しく見えるものは何でも正しいわけでもありません。
いくら流水は腐らないといっても、濁った水や腐った水が流れている川ではやはり水は腐ります。

心も身体もできるだけきれいな流水の中にあるべきなんでしょうが、きっとそれはとても難しいことだと思います。
日々是修行の一言に尽きます。

ニュージェネレーション

前回の昇段審査で初段になった三人の袴と帯ができあがりました。

 

三人のうち1人は10年、一番短い子でも5年かけてここまでたどり着きました。よく稽古を続けてくれました。

特に小学校低学年から始めて子ども達が大人になって袴をはいた姿を見るのは感無量です。これからも袴が擦り切れるくらいたくさん稽古をしてください。ルーシーもよく頑張りました。

ちなみにこの三人のすぐ上のメンバーがこちら

 

流石に袴をはいて1年経っているだけに風格がありますね(笑)。

「型」の重要性1 ー初心者の段階的感覚ー

最近は審査前、ということもあって基本の技が多いです。

基本の技をやっているとそれぞれの人の「」がよく見えます(もちろん自分も含めて)。
昨日の稽古の祭にも気がついた点を何人かには指摘しました。

合気道を始めたばかりのころは、「できるようになることが楽しい」時期だと思います。
これまで全くやったことのない合気道という未知の武道を一つ一つ知っていくことがとても楽しく感じます。
私の記憶でこれがすごく強かったのが、RAHさんやAFWさん、釘バットさんの相方です。
とはいえ、合気道は見ただけでは形を真似することも難しいので、「知った」からといってできるわけではありません。

そこで次の段階に移ります。
見て聞いて「知った」技のメカニズムを一つ一つ覚えていく段階です。時期で言えば合気道を始めて数か月の頃でしょうか。
今まで知っていてもできなかった技の形を覚えて、自分の同じ動き(の基礎)ができるようになることです。
どんどんできる形が増えていく、これもまたとても楽しい時期だと思います。

次が「かけたい」という欲求に強く支配される時期です。時期はその人の稽古頻度によってことなりますが、一年以上やっている人~黒帯を取って当分の間が一番強いかもしれません。「欲求」と書くとなんか悪いことのような気がしますが、この欲求は至極当然のものでこれがないとその先の上達はありません。
形を覚えて真似ができるようになった技を実際に相手にかけてみたいという欲求で、術である以上当然に生じる欲求です。
ただ、この時期に「型崩れ」をおこす人が非常に多いです。かくいう自分も多分そうだったと思います。

ある意味ではこの型崩れも一度は経験をした方がよいのかもしれませんが、少なくとも今の私の感覚からいえば、この型崩れが遅い人言い換えればその前段階の型を徹底的に稽古した人の方がこの後に来る長いトンネルに強いと思います。
この型の徹底が図られていると感じるのは、Noriさん、しずかちゃん、Mightyさん、RAHさん、ちびすけ、棒剣士、ハミルトン、レイサンでしょうか。

~続く

剣の稽古で感じたこと その1

日曜日は八事道場で鹿島の剣を稽古しました。

その際にいくつか思ったことがあるので、備忘録として書きます。
まず子どもと初心者へ。
剣の稽古では大きな気合を出すようにしてください。
人間の身体は便利というか器用にできているので、ある程度いい加減な動きをしてもバランスを崩すことはありません。
ところが剣は「切る」という目的において、身体のバランスが崩れていると、全く目的を果たせません。
少し難しい表現をしましたが、子どもにもわかるように言えば
ということです。
剣という扱い慣れない道具と身体という無意識に作動する道具を同時に動かす、あるいは一体化させるには非常にたくさんの訓練が必要です。その方法の一つとして、両者が融合(同時化)するきっかけを与えてやる、という手段があります。
それが気合です。
身体の所作はおよそどのようなタイミングでも行えます。これを物理的身体動作とすると、かなりの意識を持って振る剣は物理的作業であると同時に精神的な動作(作業)でもあるわけです。
この二つの動作を同調させて同時に行うためには、その契機となるものに合わせて両者をおこなえば、より効率的になります。
もちろん、最終的には気合なくしても両動作の同調(シンクロニティ)が図れなければなりませんが、少なくとも初期においては気合を出すことで身体にそのタイミングを覚えこませることが大切だと思います。
剣を見ていても、気合の適切な人は剣がよく振れていると思います。

低学年の子どもにわかるように翻訳するとこんな感じですかね。
—————————
手だけでふっているとかっこうはまねできても、じっさいに剣で切ってみると全然切れていないことがよくわかるでしょう。
自分のからだは自分の思い通りに動くけど、剣は重いし、思い通りにうごかない。
だから、「エイ!」と気合をいれることで、その気合にあわせて身体と剣をいっしょにうごかすことができるようになる。
つまり、気合はタイミングをとる方法なのです。
だから気合が小さかったり、よわよわしかったり、のびのびだったりすると気合を出してもタイミングはあいません。
剣をふるときには、何よりもしっかりと気合をだす習慣をはやく身につけましょう。

 

WELCOME NEW MEMBERS

年度の変り目ということもあり、たくさんの方が見学体験に来られます。
その中ですでに数名の方は入会されました。

4月から八事道場も始まり、
緑区、天白区、東郷町、豊明市
と広範な地域に渡って稽古が行なわれます。

なかなか普段顔を合わせない方もいると思いますし、これからはそういう門人も増えるかもしれません。
でも、同じ時期に稽古をはじめればみんな同期。

そして、名古屋至誠館で稽古をする限りはみんな同門。
普段合わない仲間にも負けないように、そして仲良く稽古しましょう。
もちろん、Eさんや蒼氷さん、山鉄さんについては(私が勝手に)同門の仲間だと思っています。
あくまで勝手にですが(笑)

新しくはじめられた方も、これまで頑張ってこられた方も、一緒に楽しく頑張りましょう!


We welcome the new members to Nagoya Shiseikan.
Now we practice Aikido over wide areas, in Midori-ku, Tempaku-ku, Togo-tyo, Toyoake-city.
So we have a lot of fellow belongs to same dojo.

Even if we can’t see each other, we are comrades.
Practice with utmost effort, and have an especial fantastic time.

Would you start Aikido practice with us?

八事道場の利用方法について

八事道場の利用方法について

(1)HPの八事道場利用カレンダーのページを開いて(パスワードロックしていますいつものです。)、空いている枠に自由に稽古内容と責任者を記入する。枠に記入する稽古はその枠に参加する人全体で行うことを目的とするものに限る。
記入例:
昇級審査練習 副館長代理補佐
サンドバックに思いをぶつける RAH
インナーマッスルトレーニング ヨガマスター
自由稽古 AFW

(2)枠の利用は早い者勝ちとする。自分だけで稽古することも認めるが、枠が埋まっていない(全体利用のない)時間のみとする。道場の趣旨から鑑みて、全体で利用すること優先するためである。自分だけあるいは特定の相手とだけ稽古したい場合は、利用カレンダーの空白の時間帯に言って稽古すること。その際はカレンダーには何も記入しなくてよい。

(3)枠の記入は前日土曜日の24時までに行うこと(稽古の最終確認は日曜日朝に行ってください)。

(4)稽古内容を設定した責任者が稽古を担当し、参加者は責任者の方針に従うこと。責任者の方針に反する稽古や、自分勝手な稽古は厳禁。自分のやりたい稽古は自分の設定した枠でやりましょう。

(5)鍵には通し番号がついているので、必ず責任をもって保管すること。未成年でも鍵を持っていて構いませんが、鍵をなくす人には渡しません。

不明な点は、館長かNoriさんまで

 

 

師範のお話 その1

みなさんも合宿でご存じのことと思いますが、田中先生は稽古の最中にいろいろとお話をしてくださいます。

名古屋至誠館の夏合宿では、子ども達がたくさんいるので子ども達にもわかるような「ちょっとだけ難しい話」をしてくださいますが、東大の合宿では武道感やご自身の体験から時事問題まで実にさまざまなお話をされます。
長いスパンで考えると、われわれの若いころは戦争をテーマにされたお話が多かったのですが、最近はご自身の武道家としての体験や、武道感についてお話を伺うことが多く、いつも楽しみにしています。

その中には、今ではもっぱら文献の中で目にするような内容もあり、またすでに映像でしか見ることのできない事柄を実体験として聴くことができるのでとても貴重な体験です。かつてAFWさんもかねてよりの疑問を質問して、なかなか知ることのできない真実を知ることができたようですが・・・

そんなびっくり箱のようなお話を楽しみにして今回の合宿も参加したのですが、今回のびっくり箱は「武田惣角」でした。さすがに先生も直接のお知り合いではないようでしたがなかなか面白い話を伺いました。

技の稽古と受けの稽古2

では気持ちよく投げてもらうためには何が大切か?

そのために必要なのは
きちんと受けが取れること
だと思います。
相手を投げる際に怪我をさせることは絶対にNGですから、受けを取れない相手に対してはしっかりとした技をかけることはできません。

単に受けが上手く取れない場合以外に、ともかく投げられないようにする受けも気持ちよく投げてもらうことはできません。
もちろん、稽古によってはそういう相手をどうやって投げるかを目的にする場合もあります。
しかし、上達するためには、きちんと投げてもらわなければ投げる感覚が身に付きません。
これも私見ですが、きちんとかかっていることを実感するために、なんでも受ければいいわけではないと思うのですが、折角きれいな形で技をかけてもらっているのに変に抵抗するのはかえって上達を妨げると思います。

話が逸れてしまいましたが、技が上達するためには気持ちよく投げてもらうことが大切で、そのためには何よりも受けが上達することが大切だと思います。

技が上達するために受けを上達させる、というのは迂遠のように思えますが、多分これが一番正攻法で近道だと思います。
わが道場のみなさん、しっかりと受けの稽古をしてくださいね。

技の稽古と受けの稽古1

合気道を学ぶ目的は技がうまくなることだと思っています。
もちろん、それ以外の目的もありますが、武道である以上やはり技の上達は一番大きな目的でしょう。

技が上達するのによい方法は
できるだけたくさん受けをとること
だと思います。

私自身色々な稽古や講習会に参加させていただいて感じることはもちろん説明も大切なのですが
実際に技をかけられて体感すること
だと思います。

そしてこれは個人的な感想なのですが
先生やうまい方に投げられると気持ちがいい!
のです。説明をされながら形だけの投げられ方をしてもあまり響いてくるものはありません。稽古もあまり楽しくなりません。

実際に投げられて(仮に痛い思いをしても)、気持ちよく投げられたり極められたりすると身体の中を走り抜ける感覚のようなものがあります。そんな稽古は疲れますがとっても楽しいです。
そんな漠然とした感覚を頼りにしながら稽古を続けるのが合気道だと思っています。

みなさん、気持ちよく投げてもらえますか?

横面打ちの捌き

最近、稽古後稽古で日拳T君が横面の捌きを練習しているのをよく見かけます。
私もあれは大好きです。

相手の打ち込みの勢いにうまく合わせて捌けないとどうしても相手の手を強く叩いてしまいます。
捌くときに意識しなければならないことは、何よりも相手と「合わせる」ことだと思います。
自意識が過剰になって「俺が中心」と思ったり、自分の身体の動きばかりを意識して動いていると、いくら相手の力を流しても相手との繋がり、あるいはつなぎ、ができないのでどうしても当たりが強くなってしまいます。
最初の頃はどうしても自分の身体のコントロールで手一杯なのでそうなってしまいます。
T君はもともとそういう動きが好きなので、イメージが上手くできているのではないかと思います。反対に内部に錬成傾向のあるNoriさんは苦手かも。(^^)

大体皆さん黒帯になってしばらくしたころに悩むのではないかと思っています。

中には相手に合わせる合気道を稽古することなく過ごしてしまう人も見かけますが、私としてはちょっと残念な気がします。折角合気道らしい面白い感覚なのに。

私が教えていただく先生方も本当に「摩訶不思議な」技を使われます。見た目はまるで踊りのように見えるのですが、本気で攻撃している自分が抑え込まれたり、流されたりして全くなんともできない。はたから見ているだけでは全くわからないのが面白くもあり、不思議でもあります。きっと洗練された本物の動きだから舞踏のように美しく見えるのでしょう。

柔らかい世界を体験したことのない人の中には、そういう合気道を否定する人もいますがそういう話を聞いていると「知らないのは可哀相だな」と残念に思ってしまいます。

以前は私も半信半疑でしたが、実際に子供のように制される経験をしたり、また稽古会や講習会で初めて会った方が同じ合気道を目指しているのを見るようになって、自分の方針が間違っているわけではないと思えるようになりました。

もちろん、柔らかさを追究することと、その場でどんな技を使うかは別の問題だと思います。私自身はズドンと入る技も嫌いではありません(友達はなくしそうですが)。その時も柔らかさの追究で身につけたことを使えるようになるといいな、と思って日々稽古しています。

頑張れT君。
でも、あんまり全体稽古の時に違うことばっかりやっているなよ。

武道と武術

年の初めなので少し真面目なことを。

合気道をはじめる前、空手や中国拳法を学んでいた時からずっと武道と武術について考えていました。
合気道が武道であることは間違いありません。
対して、中国拳法では武道という言葉はあまり使われず武術(うーしゅう)という言葉が使われることが多いです。
国の違いはさておいて、日本に限定して考えるとしても武道と武術の違いはなんなのだろうか?
これは私が武道や武術と言われるものを始めて今日までいまだ結論の出ない命題であります。

時々耳にするのは武道は「道」であって、武術は「技術である」という言葉です。
私が聞く限りでは「道」というものに精神性を求め、技術は物理的なものであるという考え方が多いのですが、この言葉を耳にするといつも思うのが、精神を追究するのであっても、その媒体に無機的な技術が存在することには間違いありません。技術そのものを切り離して精神性のみを追究するのは、ネットに見られる非経験者の武術論・武道論になるような気がします。

武道が哲学や形而上学と一線を画すのは、その根幹に非常に即物的である身体的な技術が存在するからに他ならないと思います(ここで技術と言い切るのは、すべての武道においてその創始に型ではなく敵を倒す実戦があるからです)。
実利的な技術から始まり、それが昇華する過程において生まれてくる精神性はやはり身体的な技術を無視するわけにはいきません。先に述べた精神性を重視する論者の主張する精神が主であり身体が従であるという論旨は、土台の重要性を軽視しているような気がしてどうも好きになれません。

一方でならば、精神性は横に置いておいて技術を追究すればいいのではないか、という考え方にもやはり疑問を抱くのです。
武術における技術というのは「いかにして相手を倒すか」が基本テーゼだと考えます。
その前提の下、剛術でも柔術でもほとんどの武道は一定の条件(設定)を設けています。もちろん多くの武道武術で可能な限り汎用性を高める試みはなされているのですが、やはり場面(シチュエーション)を制限せざるを得ないのが殆どです。
その結果「あの武術はあれより弱い」といった条件設定の異なる武術を引き合いに出されることになります。

どこで、その制限(条件設定)を取り払うにはどうするか、を考えることになります。そうなると割に安直に出てくるのは「武器を使う」ことです。個人的に武器の稽古は大好きなのですが、この一義的な基準に基づく考えで武器に行き着くのはとても嫌いです。
日本の武道武術では武器は剣や棒・杖がメジャーですが、そもそもこれらの武器に限定した稽古そのものが先の条件設定以外に他ならないと思うのです。
条件を取り払う考え方であれば、武器の行き着くところは飛び道具となります。どんなに技術を磨いても飛び道具にはかないません。その意味では枠を取り払って技術論を突き詰めると武術をすること自体に疑問を呈することになりかねません。一方で「銃は武道ではない」と言ってしまうとそれは条件設定にほかならず、そうであれば「素手において」という制限をつけるとしても条件の設定という点ではさほど変わりがないように思います。

結論として私はまだまだ未熟なので、どちらがよいかはおろか、どちらがよりよいかというレベルでさえ、全く判断できません。
今年もその至上命題に一歩でも近づくべく稽古を続けていきたいと思います。

稽古日誌について

ここ最近稽古日誌はほとんど私と副館長代理補佐さんで書いています。
そこで、みなさんにお願いですが稽古日誌を書いてください。

稽古日誌を書く目的は今日やった技の記録は本当にさわりに過ぎず
何より大切なのは
稽古者が日々の稽古で何を目的にしているか、
何を悩んでいるか、
どんなことをしたいのか、
を共有することです。

合気道という武道はその性質上、理について考えることが多いと思います。
一方で、なかなか簡単に言葉にしにくいところも多々あるため、どうしても自分の中だけで単純に整頓することはできません。
その際、稽古日誌を書くことが役に立つと思うのです。
稽古の内容は私あるいはその日の担当者によって決定されます。
時にはその時の自分の望みと異なる稽古がおこなわれることもあるでしょう。
そんな稽古をやったのちに、その稽古自体あるいはその稽古を鏡として自分が感じていることや考えていることを書いてもらうことで、他の人にもそれが伝わってお互いの目指すものに配慮した稽古ができるようになると思います。

もちろん、単に気を使って迎合するだけではいけません。時にはお互いの考えをぶつけ合うのも高めあうために必要なことだと思います。また、他の人の稽古に対する感想や意見・思いを読むことで、ぼんやりとしていた自分の考えにまとまりができることもあると思います。

稽古日誌は今日の稽古の記録が目的ではなく、今日の稽古内容を踏まえて自分が感じたことや考えていること(その日の稽古と直接関係なくてもよい)を少し外部に発信するものだと思ってください。

できるだけたくさんの人が稽古日誌を書いてくれることをお願いします。

達人さまざま について

本編は会員限定のページにさせて頂きましたが、みなさんの意見、議論をするためにオープンな投稿を用意します。

私自身は本当に悩ましいところです。
自分自身はこれまでの大半を田中先生の教えの下に稽古してきたので、どちらかと言えば体幹重視のスタイルであると思っています。
ただ一方で、軸を意識する動きも非常に魅力的だと思います。
お二人の先生を拝見していて、何となくたどり着く場所が同じであるなら、今は行ったり来たりしながら自分を鍛えよう、と思っています。
なので、時々変な稽古をするかもしれませんが、ご了承下さい。

達人様々

今日の稽古の記憶がなくならないうちに。
最近ありがたいことに、毎月田中先生と佐原先生の稽古に参加させて頂いています。
稽古の中で私が感じることを書いてみようかな、と思います。
一応色々な方面に配慮してメンバー限定ということで。

まず田中先生について私の感想ですが、
ともかく体幹が強い!
個人的にあまり100%とか絶対とかいう言葉は使いたくありません。
でも、田中先生の技を受けると「絶対的な体幹」というものが存在するんだということを嫌というほど痛感させられます。
体幹が絶対的なので、相手がどんなにがっちり持ってきても、力があっても揺らぐことがない。
齢87歳にして私が全く歯が立たない理由はその絶対的な体幹にあると思っています。
正直この体幹の強さは鍛錬で養えるレベルを超えているような気がします。
おそらく若いころはその体幹の強さに合わせて、膂力もあったでしょうから、本当に強かったのだと思います。
先生は現在の御自身をすっかり年老いたと嘆かれますが、体幹の強さは相変わらず健在です。
よくわからない人は副館長代理補佐さんとMightyさんに聞いてみてください。
先生を拝見していて励みになるのは、いくつになっても体幹の強さは衰えないものだ、ということです。
もちろん、継続した鍛錬が必要になることは当たり前ですが、若い力に対抗できるのが体幹の強さだと感じます。
それを鍛えることで若さに負けない強さを身につけられると思えば、これから先の稽古の励みになります。
ね、RAHさん。
現在の先生の技はその絶対的な体幹に「無駄な力が入れられない」状況の絶妙なバランスだと思います。
往年の力が無くなった今、却って体幹以外の部分に力を入れない、という感じで動かれています。それがまたとてもいやらしい。
一生懸命持ちにいっても、末端に力は入っていないは、体幹は崩れないわ、どうしようもありません。

次に佐原先生の技は
ともかく動きがやわらかい。
とはいえ、単にやわらかいのではなく、軸が非常にしっかりしている。
軸をしっかりと保ちながら、柔らかく自由に動くことで力を使わずに相手を制する。
指導を受けると、接点のセンサーを意識することを言われますが、そのためには自身の体が非常に柔軟かつ自由に動く必要があります。
しかし、動けば動くほどバランスを崩すのが人間です。
自由に動きながら軸を安定させる、非常に難しいことです。
佐原先生は柔らかく動かれながら軸を安定されていますが、静から動、柔から剛へ瞬時に転換する瞬間があります。この瞬間に田中先生と同じ体幹の強さを感じます。
強いて違いを述べるのであれば、田中先生の体幹が基質として体自身に備わっているものだとすると、佐原先生の体幹は動的な動きによって形成される機能的なものであり、鍛錬に資する部分が多いということです。
もちろん、田中先生のような体幹もある程度は鍛錬で鍛えることができると思います。

山口清吾先生の直径で柔らかいタッチを術理としながら、そのために揺るがない体幹を作る佐原先生と、揺るがない体幹を基にそれ以外の部分の脱力行う田中先生。
一見全く別なように見えて、全体としては同じ到達点にあるような気がします。
どちらがよいか、どちらを目指すかはそれぞれの自由です。
ただ、お二人の先生に投げられながら感じることは、どちらを目指しても最終的には同じところに辿りつくのだな、ということです。

自分自身はもう少し、色々と悩みながら、ふらふらしながら、Noriさんに悟られないように悶々としながら自分の技を練っていきたいと思います。

受けの重要性

先日も講習会に参加して思ったことですが、他の道場の方は受けが上手い人が多い。
先生だけでなく、みなさん上手い。
きっと普段から受けを意識した稽古をしているのだと思います。

合気道の稽古は、型稽古が基本です。
武術としての合気道の最終目的が「どんな相手に対しても技をかけること」だとしても、最初から無理な受けやちからまかせに我慢する受けを相手に稽古したのでは上達しないと考えます。
以前Eさんも書いてくれましたが、受けで大切なことは「無理はしないけれど、馴れ合いにもならない」ことだと思います。ただ、初心者はきちんとかかる感覚もない状態なので、それを上達させるためには、「きれいにかかる感覚」を体感させることが何より大切だと思います。

初心者が自分で受けるときは、まず上級者にきれいに投げてもらい、それに逆らわないように受けることで「きれいに投げられる」感覚を身に着ける。そして自分が投げる時には受けで身に着けた感覚で投げればよいのではないかと思います。そもそも最初からきちんと投げることはできないのですから、少しでも形から入ればいいのではと思うわけです。

型稽古において、無理な受けや理不尽な受けを取っていては、技をかけている方が技の形や理を体感することもできないですし、受けている方も単に「かからない」ことの自己満足になるだけで、どこが技のポイントなのか理解することはできないと思います。

私自身、武術としての合気道の目的は「誰に対しても技をかけられること」だと思っているので(この点目的が違えば過程も異なるとは思います)、時にそういう稽古をすることも必要だと思っていますが、それはあくまで基本の形ができて何が大切が理解できてからの話だと思っています。「馴れ合いはしないけれど無理もしない受け」ができるようになるためにも、まずは何が無理のない形かを身に着けることは大切だと思います。

合気道において「和」が大切にされる理由の一つではないか、とも思っています。
意義のある稽古をするためにも、相手の技術如何に関わらずきれいな受けが取れるようになること、非常に重要だと思います。

剣の稽古

夏合宿が近づいてきたこともあり、剣の稽古をしました。
なかなか普段稽古する機会が少ないので、こうした機会にしっかり稽古できればと思います。

特に最近は通常稽古は参加人数が非常に多いため(まず水曜日の稽古では不可能)、
普段の稽古では、土曜日の午後の稽古時に剣をやることが多いので、午後稽古への出席者とそうでない人でレベルの差が随分あります。

以前別のところでも書きましたので割愛しますが、剣の理は体術にとても役に立つと思っています。
その意味でも稽古の一つの方法として剣術を稽古することはよいことだと思います。

名古屋至誠館では鹿島の剣をおもに稽古します。
剣の段階としてとりあえず
1.剣の持ち方、礼法、抜き方、構え方を覚える
2.切り割り(剣を「振る」こと)を覚える
3.袈裟切り(剣を「扱う」こと)を覚える
4.八方切り(剣と足の捌きの連関)を覚える
5.切り結び(相手との剣の結び)を覚える
6.基本太刀1(剣術の基本の形)を覚える
7.基本太刀2(剣術の理)を覚える
8.基本太刀3(力でなく剣を振る)ことを覚える
9.裏太刀1(体幹と剣の連動)を覚える
10.裏太刀2(手を使わず腰と剣の連動)を覚える
11.裏太刀3(間)を覚える
12.相心太刀1(足を動かしての打ち込み)を覚える
13.相心太刀2(動きの中での軸と重心の安定)を覚える
14.実戦太刀1(剛柔と間)を覚える
15.実戦太刀2(起こりと瞬間)を覚える
16.実戦太刀3(脱力と力の集約)を覚える
17.合戦太刀
という感じでしょうか。

剣の稽古方として組太刀の順番が決まっているのには意味があります。
「自分はこれが好き」といってやるものとやらないものを選り好みすると上達しません。
特に男性は基本太刀の次に相心太刀をやるのはやりやすいですが、裏太刀で学ぶべき点を落として先に進むと、本来の相心の理である「足」や「軸」への意識が無くなってしまいます。
学生にも多いですが、踏ん張って力を入れて形になっているから満足してしまう、のでは折角剣をやっている意味がありません。
逆に女性は相心の打ち込みが苦手で避ける人も多いです。しっかりした腰と軸ができればしっかりした打ち込みができるのですが、軸が安定していないと力に負けてしまうのでつい避けてしまいがちです。

組太刀の技は型稽古なので、実際には利かないように感じることも多々あります。でも、きちんと稽古すればちゃんと身に付きます。多分。
なかなかストレスが溜まる稽古も多いと思いますが、頑張って稽古しましょう。

子どもに合気道を習わせる目的2

子どもに合気道を習わせる目的として第2に考えられるのが精神力、忍耐力をつけさせることだと思います。
私自身子どもにこうしたものを身に着けて欲しくて、小さいころから空手を習わせました。

精神力・忍耐力も礼儀同様わざわざそのための練習をしなくても、武道においては通常の稽古の中で自然と培われていくものであると思います。
また、稽古の内容や道場での振る舞い方などについてきちんとさせれば、どうしても身についていくと思います。

しかし一方で実はもっとも難しいのが精神力と忍耐力の向上ではないかと思います。精神力や忍耐力を鍛えるにあたっては
どうしても精神的なストレスや苦痛を伴うことが多々あります。私自身稽古は楽しくやりたいタイプなので、できれば稽古中に子どもたちを叱りたくはありません。名古屋至誠館は稽古中に遊ぶ子どもはほとんどいないので、せいぜいのんびりやっている子に激を飛ばすくらいですが、やはりそれはやらなければいけないように思っています。

道場としてもリスクは大きく、先の礼儀等と併せて考えると、厳しすぎる道場はどうしてもやめる子も多くなってしまいます。そこで、できるだけこの第2の点(場合によっては第1の点も)には目をつむって楽しく稽古することを最優先に考える道場も多いのではないかと思います。ただ、うちの道場の場合保護者から見て第2の目的の占めるウエイトは決して小さくないことと、子ども達の雰囲気から厳しい稽古をしても楽しく稽古してくれていること、から少し負荷の大きい稽古や子どもたちにとってややつらい稽古もこなせる環境が整っています。例えば、今では誰も大変だと思わなくなりましたし、また新しく入ってくる子ども達もそれが普通だと思っていますが、「四股20回、円描き10回、体の転換200回」は普通ではないと思います。

でも、不思議につらくてやめる子も泣き出す子もいないんですよね。子どもたちの健やかさと明るさ、雰囲気に感謝感謝です。

子どもに合気道を習わせる目的1

日曜日は久しぶりの完全休日。
今週は畑の手入れもないし、雑用も特になし。
ちょっとゆっくりしてみました。

自分の子どもも生意気に大きくなって、「子ども」という感じではなくなってきました。
でも道場はいつもリアルタイムで新しい子ども達が入ってきます。子ども達と一緒に稽古するためにもいつも考え続ける必要があると思っています。

親が子どもに合気道(武道)を習わせる理由を考えてみました。
1.礼儀やしつけのため
2.精神力や忍耐力を鍛えるため
3.合気道の技術を身につけさせるため
4.護身のため

必ずしも理由は一つとは限らないと思いますが、まず礼儀やしつけを習わせるのに武道は非常に向いていると思います。
ただ、これらのものを習うのであれば武道でなくても構わないわけですし、身体を動かすものである必要もありません。
その中で運動系かつ武道を習わせてよかったと思うとすればどういう点なのだろうか、考えさせられます。

例えば子ども(特に小さくなればなるほど)本人にとって「礼儀」はそもそも必要なものではありません。子どもの世界に力関係はあっても上下関係はないでしょうし、大人のような社会的な儀礼などもありません。もちろん将来のことを考えればきちんとした挨拶ができるようになったり、礼儀正しくなることは非常に良いことだと思います。でも、本人にとっては特にやりたくもないことをさせられるわけです。気が乗るはずがありません。

そんな中で武道の良いところは、その稽古の成り立ちや流れの中に自然と礼儀やしつけに関わる行為が含まれているところにあると思います。子どもがそれを「礼儀」と意識しないままに稽古の一つの作法として自然と礼儀が身についていくのは武道の魅力だと思います。

もう一つは武道の非日常性にあると思います。習い事がその子の日常に近ければ近いほど、普段の「地」が出ます。合気道の場合は普段着から道着に着替えて普段はほとんど行わない稽古を行います。そのため、稽古に際して意識の切り替えがおこないやすいのではないかと思います。日常と意識が切り替わることで、日常生活の中ではやらない礼儀作法もおこないやすくなる(なんでそんなことしなければならないの? という疑問を持ちにくくなる)のではないかと思います。

とはいえそれはあくまで理屈であって、やはり周囲の大人が稽古中の礼儀や作法について厳しくしなければ効果は上がりません。しかし厳しくしすぎると、もともと「何のために?」という疑問を持つ行為なのですから子どもにとっては強いストレスになります。あくまで厳しくすることを基本にしながら、子ども達が嫌にならないように稽古をする、とても難しいことだと思います。
いつもその点に気を遣いながら子どもたちの稽古を見てくれる大人の人たちには感謝しています。