「武道についての雑感」カテゴリーアーカイブ

武道に関した雑感

同じ話は重なるもので・・・

ある夏に自宅でゴーヤを栽培して、食べきれないほどの大豊作でした。で、そんなときに限っていろいろな方からゴーヤのおすそ分けをいただき、毎日食卓がゴーヤ祭りだった「苦い」体験があります。
いきなりくだらない例で申し訳ないのですが、何かの拍子で同じような話が耳に入ってくることがよくあります。

最近、知り合いから「何のために合気道を続けているのかよくわからなくなっている」「このまま合気道を続けるかどうか迷っている」という話(というか愚痴だと思うのですが)を続けて聞きました。
合気道、いや武道全般についていえると思うのですが、目的は別に何でもよいのではないかと思います。例えば、ビールをおいしく飲むために体を動かして汗をかく、仕事以外の仲間を見つけに行く、稽古に行くことを考えると会社のストレスが発散される、など別に不純な動機などというものはないと思います。
ただ、当然の流れでそういう話の際には「どうして合気道を続けているのか?」と聞かれます。
私の答えは単純で「うまくなりたいから」。もちろん、稽古後の飲み会は大好きですし、仲間とのおしゃべりも楽しいです。が、やっぱり何と言ってもうまくなりたい。やはりこれが一番にあります。「うまくなりたい」と思って稽古していると、稽古自体も楽しくなる(と私自身は)思っています。
稽古は厳しい方が好きなのですが、楽しくない稽古は嫌いです。一見矛盾しているように聞こえるのですが、稽古の先にあるものに希望を抱いて行える稽古は「楽しい」し、稽古自体の目的が見出せなかったり、余計なことに気を遣って稽古に集中できなかったりするのはつまらない。
私は単に稽古好きなので、そんな風にしか答えられないのですが、そんな話をしたら「少し吹っ切れた」と言ってくれた友人がいたので、ちょっとブログにも書いてみようかなと思いました。

昇級昇段と納得

春に昇級昇段審査をやるところは多く、そろそろ昇級昇段シーズン真っ盛りとなります。

審査を受ける人にとって「どのタイミングで昇級昇段するか」はとても悩ましい問題だと思います。特に真剣に合気道をやっている人ほど悩むのではないかと思います。

これは単なる推測ですが、教えている先生方は教え子にどんどん上達してもらいたいという気持ちもあるでしょうから(心を鬼にして、というのは別として)心情としては、早く昇級昇段して欲しいと思われるのではないでしょうか。

一方で教えられている方としてみれば、自分の現状に満足できる人などいるはずもなく(いたらそちらの方が問題だとおもいます)、昇級昇段には消極的になる人が多いのではないでしょうか。

私見を述べれば、受ける側は自分が納得していない状態ではやはり審査を受けないのが基本ではないかと思います。まじめに取り組んでいればいるほど、不十分な状態で昇級昇段することは自分が真剣にやっている武道自体への不信感につながりかねないと思うのです。武道が単なる技術でないことはほとんど方がおっしゃていることで、その意味でも心の納得が必要なのではないかと思います。

とはいえ、自分の完全な納得や満足を待っていたのでは、永遠に昇段しない人も現れかねません。なので、妥協点として「自分自身は満足できていないけれど、先生(師範)から審査を受けるように言われてその理由に納得できた」場合には、受検してもいいのかな、と思います。

ただ、これはあくまで「受ける側の論理」であり、「受けさせる側の論理」からしてみれば、受けて欲しいところもあって悩ましいのではあるのですが。

武道を続ける意味

今日は3月11日です。東日本大震災から2年。

昨日からテレビ等の報道を見るにつけ、被災された方々やその関係者の悲しみは今も癒えないことを聞いて心が痛くなります。

と同時に、自分がやっている武道はいざという場面で一体どんな意味を持つのか、つい考えてしまいます。逆境に遭っても挫けない心か、厳しい環境の中で耐え抜く丈夫な身体か、瞬時の判断か、覚悟する心か。考えれば考えるほどわからなくなってしまいます。

具体的な根拠はないのですが、感覚的にそれでも武道を続けることはいざという時にきっと意味を持つだろうと漠然と思っています。そして、何より今も武道を続けていられることに深い喜びと感謝を感じています。

被災地の一日も早い復興と、被害にあった方々のご冥福とご回復を心よりお祈りいたします。

技の種類2

今度は稽古においての技の種類を増やすことについて考えてみたいのですが、これも基本的には好きです。
技の数が増えることは、自分の技術の確認に便利だと思いますし、バリエーションが変わることに対応できるかどうかは稽古する人にとっては結構重要な問題だと思っています。

ただ一方で、技の数を増やすことは目先の技術にとらわれて、今どんな基本を大切にするべきかを見失いがちになってしまうというリスクも大きくなるかと思います。
また、バリエーションは純粋に動きのパターンの掛け合わせで考えられるものではなく、やはりそれぞれの技の「」にかなったものでなければならないと思います。
少し慣れた(初心者ではなくなった)人でよく見かけるのが、技の種類を増やすために「理」に合わない無理な動きの組み合わせをこじつけている人ですが、理に適っていない動きや技は、基本も崩しかねない気がするので怖い気がします。

そんな風に考えると、技の種類は絞って基本を重視する方がリスクは少ないのかなと思うのですが、それに徹するのもなかなか難しいだろう、と稽古をしていて思います。

技の種類1

合気道には数千数万の技がある、という説明を時々見かけます。
それと同じくらいの頻度で、合気道の基本の動きは限られていて技の数はそのバリエーションに過ぎない、という説明も見かけます。

どちらの説明も正しくて、ただ前者の説明は合気道の可能性を積極的に表現したり、技術をできるだけたくさんのバリエーションで稽古したい場合に使われ、後者の説明は何よりも基本を大事にすることを優先して、バリエーションはわざわざ説明しなくても自分でたどり着くだろうという考えによるものではないかと思っています。
なので、どちらが正しくどちらが間違っているとは思っていません。

ただバリエーションの数が気になるので、ちょっと具体的に考えてみると
・攻撃の種類:正面打、横面打、方手取、両手取、後取 でとりあえず5種類
・体勢:立技、座技、半身半立 で3種類
・裁きの種類:入身、転換 で2種類
・技の種類:一教、二教、三教、四方投、入身投、天地投、小手返 でとりあえず7種類
これを掛け合わせると、
 5×3×2×7=210
もう210種類 結構なバリエーションのような気がします。

稽古と目的

いつも思うことですが、合気道は性質として精神的なものが重視されやすい傾向があるように感じます。
柔術といものがなかなか難しいためか、特に一定の基本の形をそれなりにこなせるようになった人が「次に何を目的にしたらよいか」で悩むことが多いような気がします。
そういう時期にはつい、内向的な考え方をしてしまい、「合気道はこうあるべきだ」「稽古はこうあるべきだ」という精神論を重視してしまいがちな傾向があるように思います。
精神論自身は別に何も問題はないと思うのですが、身体を動かす稽古と精神論のバランスが極端になると(特に身体を動かす稽古で行き詰っていたりすると)稽古を続けることが負担になったり苦痛になったりすることもあるのではないかと思います。
悲しいのは、合気道が好きで一生懸命やっている人が難しく考えて稽古ができなくなってしまうことです。
あまり深く考えないで、ともかく身体を動かせばよいのではないでしょうか。

稽古の目的

なんのために合気道をやるのか? という問いは、「まだ合気道を始めていない人」と「ある程度合気道をやった(中級の入り口)くらいの人」からよく聞きます。
このうち後者の中でよく見かける(というか感じるのですが)のは、熱心に稽古して一定のところまで上達した結果、却ってその先に何をやったらよいか分からなくなってしまっている人ではないかと思っています。しかし、実はそういう人には「自分は結構やってそれなりのものを身に着けている」という慢心もあるような気がします。
私もそれなりに長い間稽古を続けていますが、未だに自分の技術に自分自身で満足できたことはありません。自分の現状がまだ発展途上、あるいは未熟であるという認識があるのであれば、必ずどこかにさらなる上達のための途や方法があるはずで、その方法探しが合気道をやる目的すなわち「上達したい」に続くはずだと思います。
何やら抽象的で小難しいことを書きましたが、結局のところ合気道を稽古する目的は何より「うまくなるため」ではないでしょうか。

稽古の工夫

昨日の稽古では、稽古担当者が工夫した稽古をしてくれました。子どもにとっては目先が変わるものでもあり、いつもにまして集中力が上がってくれればと願っています。
大人にとってみれば、考える題材は多い方が稽古に個性が発揮できてよいと思っています。ある一つのことを身につけたいと思っても、大人はみんな人生経験が豊かなためよくも悪くも時間がかかってしまいます。一つの稽古法ではなかなか意識(モチベーション)が持続しない場合に何らかの方法で「考える」ことは現在の稽古を見直すいいきっかけになると思います。

稽古を担当する側も、稽古に参加する側も「考える」ことでよい稽古を作り上げられればよいな、と思っています。