「武道についての雑感」カテゴリーアーカイブ

武道に関した雑感

重心と柔らかさ

副館長代理補佐代行代理支部長さんが書いていたので、T大のことについて書こうと思ったのですが、丸投げできそうな匂いがプンプンしたので、スキンさんに投げたところいきなりジャストミートしてくれました。
以下はスキンさんの投稿です(投稿できる権限を渡したので、コメントでなくて投稿して下さい。なんでも自由に投稿してもらって構いませんよ~)。

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T大の特徴はまず足腰にあります。毎練習毎に四股と円かきを必ず実施するので4年の段階で足腰だけなら全員2段以上でしょう。技は合気会系と養神会系の間に位置するような技です。形よりも効くか効かないかを重視している傾向がありますのでともすれば、悪い方向へ進んでしまう(受けががちがち、仕手もがちがちで力任せの技になるため道場内では年功序列的に技がかかるが素人には手を離されたり逃げられたりするためかからない。)可能性があります。しかし指導陣が呼吸をとことん大事にした練習により無駄な力を抜くことを意識させられたり、正しい鹿島神流剣術(剣の重みを生かしつつものうちのみに力を出す、千変万化できるよう芯は強くもちつつ、節々は柔らかい)を取り入れていますので全体としては悪い方向へ進まずにすんでいると思います。
先日の稽古風景はT大部員の平均よりも悪い方向へ進んでいる人が少なめなものだったのでより良い印象を抱いていただけたのかなと思います。

副館長代理補佐さん
私も非常にためになった一日でしたし、楽しかったです。また家庭が許す限り顔を出しますのでよろしくお願いします。
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怪我をしない稽古02 ~稽古の目的~

前回、怪我をしない稽古は上級者(または教える側)にとって不可欠だ、という話をしました。
書いた後で考えてみたのですが、怪我をしない稽古を望むかどうかは稽古に参加する側の目的にもよるかと思います。

限界を超えるまで自らの肉体を追い込むことで、無理をしてでも普通では手に入らないような成果を手に入れようとする人にとっては、怪我をしない稽古よりも「怪我するまで激しく稽古すること」の方が大切かもしれません。
限界を超えて、超人的な力を身に着けたいという熱い気持ちはわかります。
また、そんな人たちが集まってする稽古は、互いに壊れても構わないことを納得済みのホットでハードな稽古になるのでしょう。
いつも誰かが包帯を巻いている、一時期の熱血スポ根マンガみたいかな。
とはいえ、前回も書いたように長く合気道や柔術を続けたい私にとっては、(若ければまだしも)もうすでにそんな稽古はあまり効率的とは言えないような気がします。

結局のところ、合気道を稽古する一番の目的は自己の鍛錬にあると思います。
自身にとって、怪我をしても激しく上達する可能性がある稽古がいいのか、身体の健康と上達のバランスを取りながら稽古するのとどちらがよいかは人それぞれなんでしょうね。
私自身は稽古できなくなるのが一番嫌なので、怪我しないように稽古しているのですが・・・

怪我をしない稽古

先だって副館長代理補佐さんと話をしていて驚きました。
彼は、以前は始終手首や足首を怪我していたとのことです。
原因は合気道の稽古とのことで、合気道を稽古するようになって怪我が絶えなくなったそうです。

でも最近は稽古で怪我をすることは全く無くなったそうです。
稽古日誌でも書いていましたが、私に投げられても怪我をしないとのことですが、それは
あたり前
です。
稽古で上達してもらうためには、できる限り厳しく投げられた方がいろいろな意味で練習になってよいと思います。
しかし、怪我をしては元も子もありません。
だから怪我をしないぎりぎりの範囲
で投げることが大切だと思っています。
技術のレベルに差があればそういう投げ方をするのは上級者の当然の義務です。
合気道の理念は相手を傷つけない和の心です。
その上で稽古をするには、上級者がきちんと相手の実力を理解してそれにあった稽古をするべきです。
でも技術がつたないうちは感覚的に自分の技量と相手の技量を理解できずに、力に任せて相手を怪我させてしまうことが多々あります。
怪我をすると稽古もできなくなってしまいます。残念なことです。

なので、相手に怪我させないことは当然の話です。
ただ、もし相手のことを一切考えないで技をかけてよい、という状況が存在するならば別ですが。
皆さんがうまくなったらもう少し強く投げさせて下さい。

何にしても名古屋至誠館では怪我のない稽古をしましょう。怪我をする稽古は仕組み自体に何か問題があるはず。常に意識して稽古を考えていきましょう。

合気道・合気柔術やってみよう!

普段道場では合気道の稽古をしています(あたり前か)。

合気道は開祖植芝盛平先生が武道として確立されたものですが、その源流の一つに武田惣角先生の大東流合気柔術があると言われています。
さらにこの合気柔術はもともと会津藩で藩外への伝承が禁止されていた御留流(会津御式内、御式居内)から編み出されたと言われています。
つまり合気道の源の一つが御留流だったわけです。

私は残念ながら幕末に生まれていないので、その真偽については知りえませんが、合気道の技や術理を見ていると、きっとその技術は今の合気道の中にも色濃く流れていると思います。
また合気道には試合がないため、試合の得点に特化して技が変化することもなかっと考えます。
それゆえ、遥か昔から練り上げられてきた柔術の技術が合気道の中には、理を失うことなく受け継がれていると思っています。

加えて、その発祥意義から、空間的な限定や無手・正座などの多くの制約的な前提条件の下で発達してきた御留流は、力の出せない状況でも相手を制圧することを目的とたといわれています。 その術理が合気道においても生きているからこそ、合気道は力を用いずに相手を投げたり制したりすることができるのだと思います

その意味では、合気道は何よりも動きの理を重視して稽古する必要がありますが、その威力と魅力は源流からの歴史と同様に無限に深いものだと思います。
そんな時代を超越した流れをくむ武道を、是非中学生や高校生の人たちにもやってもらいたいといつも思っています。

いよいよ運動の秋。
名古屋至誠館で一緒に合気道の稽古をしましょう。いつでも気軽に体験受け付けています!

型稽古の大切さ

型稽古の大切さについてコメントがあったので、思うところを少し。
合気道のような柔術は、空手などの剛術とちがって物理的な指標がほとんどありません。また、合気道には試合もないため、一つの基準に基づいて優劣を決めることもありません。

ちょっと横道にそれますが、私は柔術には試合がない方がよいと考えています。柔術の目標は理合の理解と習得、体現だと思っています。で、これはとてつもなく時間がかかるもので、目先の試合に勝つという目標とは正反対に近いと考えます。それゆえ、試合はない方が「長い目」で見たらよいと思うのです。

さて本題に戻りますが、こうした柔術を身に着けるにはいろいろな稽古をした方がよいと思うのですが、その中でももっとも大切なのが「きれいな形」「かかりやすい形」での型稽古の反復だと思います。
自分の姿勢が窮屈だったり歪んでいると身体とその動きに変な癖がついてしまいます。相手との約束稽古ではそれでも技がかかるのですが、いざ自由にかけてみようということになると、この癖が問題になります。うちの道場でもそうした癖を修正するのに苦労している人がいます。
また、一方で受けが素直でない(という表現でよいか難しいですが)受けを取ると、技をかける方はなかなか技がかかりません。初心者であれば、正しい形がなかなか身につかなかったり、中上級者であれば今まで身についていた形が間違った方に湾曲されることになります。

特に初心者に対しては(もちろん初心者でない相手に対してもですが)、できるだけ「自分が知っている一番良い形」で投げられるように受けてあげるのがよいと考えます。投げる方が自分の形を修正するなら「きれいな受け」とのずれを感じ自らの技を修正する方がよいと考えます。

個性を大切に

道場開設以来ずっと一緒に稽古しているNorikoさんと副館長代理補佐さんは、同じように私の説明を聞いて同じ内容の稽古をしてきたわけですが、半年たってずいぶん違いが出てきたと思っています。

それぞれ、得意な動きができてきた一方で、相変わらず不得意なものもあります。それが二人で全然ちがっているのが面白いです。
きっと二人のなかでは「あっちはできるのに自分はできない」「まずい、どんどん差が付いちゃう」とか思っているのかもしれませんが、私の目から見てきちんと伸びているところは伸びていると思います。
とまあ、その点は置いておいて。

同じ稽古をしていても体格・性別・年齢などさまざまな要素によって上達する方向に違いがでます。
それが個性だと思います。
せっかくよい形で伸びているのですから、それを大切にしながら稽古するようにしたいですね。
途中の経過やスタイルに違いができても、それがお互いの刺激になってよりよい方向に向くと思っています。
人のできることができなくても、そんなに焦らないで自分の得意なところを伸ばしながら、じっくり稽古しましょう。

それぞれの個性を大事にして、それが押さえつけられることのないように稽古したいと考えています。

合気会登録へのお知らせ

本日合気会本部よりご連絡をいただきました。
名古屋至誠館が正式に合気会の登録道場として登録されました。

これもひとえにご支援いただいた皆様と一緒になって頑張ってくれている門人のみなさんのおかげです。
心から感謝しています。
本当にありがとうございました。

これからも初心と感謝の心を忘れずに「至誠」の名に恥じないように道場一同精進していきたいと思います。
これからも暖かい心でご指導、ご支援賜りますようお願い申し上げます。

道場生のみなさん、これからもがんばりましょう!

極意

虎の巻の話で極意という言葉が出て来ましたが
合気道はいきなり極意を稽古してるので
そこのところが希薄になっている人が多いのも事実です。

太刀ふるひ前にあるかと襲ひ来る敵の後に吾は立ちけり

開祖植芝盛平が残した道歌です。
これを見てみなさんはなにを思い浮かべたでしょう。
正面打ち入り身投げですかね

合気道には入身・転換・転身などの大切な体捌きがありますが、
そのなかでも大切と思われるのが入身です。
合気道の稽古のほとんどの動きに入身が含まれており、
ある意味、合気道で入身を学んでいると言っても過言ではありません。
入身は間合いと置き換えることもできますが、
相手との距離・向き・タイミング等により一瞬一瞬変化していきます。
それを感じ、捉えていくのが稽古では大事なんではないかと思います。

あと、入身が上手になるにはスムーズな足捌きが必須です。
足捌きの基礎を習い始めにみっちり稽古しておかないと
合気道はなかなか上達しません。
というわけで、新しく入られた方にはしっかり足捌きを教えてあげようかなと
思っています。

研鑽のための刺激

どのレベルや段階においても同じですが、上達するためには現段階で自分がやるべきことを見つけて、それをきちんと稽古するしかないと思います。
さらにこれもどの段階でも同じだと思いますが、自分がやるべきことは現時点の自分の力を超えた事柄なのでなかなかわからないはずです。
ただ、初めて間もない人は比較的やるべきことが多い(課題が多い)ことと、指導者や先輩が内容を指摘してくれることも多いのでまだよいのですが、ある程度の段階になると自分自身でやるべきことを見つけなくてはならなくなります(誰かから教えてもらえることはほとんどなくなるので)。
私にとって自分自身の課題を見つけるのには、やはり熟練した技術をもつ先生の稽古に参加させていただくことが一番ためになります。
もちろん一番よいのは常に自分の課題を気づかせてくれる師がいることですが、今は師と遠く離れているためそれもままなりません。
最近はこれまでの稽古が雑だったせいか、自分の技について不満な点が多々あります。
今はそれを何とかしようと稽古に励んでいます。

昨日の稽古も楽しかったです。

初心者の稽古内容

最近一気に新しい人が増えました。
どうせならできるだけ早く上手くなっていただきたいと思っています。
初心者が上達するのに一番手っ取り早いのは転換の稽古だと思います。

もちろん、間違った形で稽古するのはいけませんが、比較的場所も取らず繰り返し行える稽古だと思います。
最初のうちは毎日時間を作って繰り返し練習するとより効果的かと思います。

転換の稽古方法については、こちらで確認してください。

桃李言わざれども

桃李言わざれども下自ら蹊(みち)をなす

ここ最近の道場の様子を見ているとこの言葉が思い出されます。
『史記』李将軍列伝に出てくる言葉ですが、
人徳のある人のところには、自然に人が集まってくる、という意味ですね。

合気道への飽くなき探究心、基本に忠実で無理のない(押し付けのない)指導、
厳しいが子供を惹きつける指導、明るく楽しい雰囲気、
などなど枚挙に暇がないですが、僕から見ると魅力満載の道場です。
どんどん入会者が増えちゃうのは自然の理ですね。
逆に増えすぎちゃったらどうしようと運営者じゃない僕が密かに心配するぐらいです。

名古屋至誠館はもはや新しい道場ですね、

館長!合気道を探求していきましょう

投稿についてのお知らせ

このHPについてのルール? を少し説明します。
以下細かく書いてありますが、あんまり気にせず適当な場所に適当に投稿してください。
投稿されない方がさみしいので。

1.投稿について
このHPに投稿できる人は、投稿する権限のある人です。
関係者で投稿できません、という人は私まで連絡下さい。

2.コメントについて
投稿に対するコメントは誰でも可能です。どんどんコメントしてください。
ただ、宣伝やDMなど不要なコメントもあったりするので、コメントを書いても確認されるまでは掲載されません。
例外として、投稿することができる人のコメントは即時掲載されます。

3.投稿のカテゴリーについて
(1)子どもと合気道
道場の子どものことや子どもの稽古のこと、子どもについて合気道他武道に関わることなど、自分の思うことをどんどん書いて下さい。
子どもについてこんなことを思うんだけれど・・・という内容を投稿する場所です。
(2)武道についての雑感
これが一番メインかなと思います。合気道はじめ武道全般について思うことを何でも書いて下さい。
自分にとっての武道や、いつも稽古していてこんなことを思っているというつぶやき程度のことから
いやいや、俺の武道観を聞いてくれ、という重みのあるものまで、
本当にささいなことでも構いません。稽古のストレスをためないために使ってもらって構いません。
ともかく合気道や武道について何でもおもったことを投稿する場所です。
(3)稽古日誌
稽古を行なった後に感想や希望などを述べる場所です。(2)との違いは実際に行った稽古に関する投稿である、という点です。
「稽古記録」ではないので何をやったとかを書く必要はありません。どちらかというと稽古を終えての心の中が書かれているといいですよね。
(4)身体についての考察
趣味の項目です。私の好みで書いているだけです。でも、書き込みは大歓迎です。別に難しく書く必要も難しい内容である必要もありません。難しく書くのが趣味なのは私と山鉄さんだけなので、それ以外の人は「(3)の技術バージョン」とでも思ってもらえれば十分です。技術的なことについて書く場所です。
(5)雑談
(1)~(4)以外の内容はどうしよう、と思って作りました。後から作られたとってつけたようなカテゴリーです。最もなんでも書いてもらって構わない場所です。
でも、その方が却って書きづらいかな?

何よりも「気軽にいろいろ」投稿してもらうことが一番の目的です。失敗したら削除可能なので、気楽に投稿してみて下さい。

稽古の継続4

ようやくまとめです。

結論として、大学を卒業するころの学生は
 ・何を目標にして
 ・どれだけ稽古をして
 ・何を基準に判断すれば
よいかわからなくなってしまうことが多いのだと考えます。これはきっと大学生に固有な問題ではなく、一般の道場で稽古される方にも一定の時期が来れば訪れる問題なのでしょう。

前にいた道場でも、二段をとった頃から自分の技や稽古に自信が持てずに苦悩する人は何人も見ました。
あ、こんな書き方をすると偉そうに見えるので言い訳しておきますが、私自身は今でも同じ悩みを抱え続けています。
悶々とする合気道人生です。

で、上記の悩みは誰にでも訪れるとして、その上で大学生の場合それを解消・緩和してくれる先輩に恵まれるかどうかが重要な要素になっていると思います。
中にはそうした先輩なしにこのトンネルと潜り抜ける(それを讃えて武道家と呼んでもよいかもしれません)人もいます。
でも、その苦労は並大抵のものではありません。加えて、自力で抜け出た人は他人の悩みが必ずしもわかるわけでもなく、場合によっては自力でトンネルを抜けたために苦しむ人の気持ちはわからない場合もあるかもしれません。まあ、それは別の話なので置いておいて、悩んでいるときに救いの手がさしのべられないことは追い打ちになることでしょう。

悩みは尽きない、それを緩和してくれる人もいない、となるとだんだん積極的に稽古をする気持ちはなくなってきがちです。
そんな状態で苦しんでいるよりも目先を変えて新しいこと(例えばテニスやゴルフなど)に挑戦した方が目標が明確で楽しい、と感じるかもしれません。
また、稽古で汗を流してお酒を飲むことに楽しみを見出すかもしれません。
ただ、どちらにしても「稽古」という本筋に楽しみがおけなくなってしまえば、あとは脱落するのは時間の問題です。

社会人になって仕事はじめ新しいことにチャレンジする楽しさを手に入れたり、稽古という苦悩の陰のない飲み会ができるようになれば、そちらの方が気楽で楽しいので次第に稽古から離れて行ってしまう。
それが、多くの大学生が社会人になって合気道から離れていく理由ではないかと思っています。
私自身も大学生と稽古を続けて20年以上になるので、そういう学生をたくさん見てきました。

結論としては、しようがないかなと思っています。
もちろん、ともに稽古をする仲間が減ることはこの上ない寂しさがあります。
でも、悩んで苦しんでいるよりはそれから解放された方が本人にはよいに違いありません。
それでも、同じ部活で汗を流した縁は消えないわけですから、同窓会のような機会を持てることも大学の部活のかけがえのないつながりの一つだと思います。
苦しんでいるとき、私に言ってくれればよかったのに、と思うこともありますが、一旦長いトンネルに入ってしまうとなかなか力を貸すこともできません。
それも運命なのかもしれません。

そういう意味では、今一緒に悩みながら稽古をしてくれる道場の人達に未熟ながら力になれればと思うと同時に、どんなことでも言ってもらえれば一緒に悩むから、と言いたいです。
そして、何よりもそうした悩みを共有できる仲間のありがたさをかみしめつつ、今悩んでいる人達にもさらに次の人達の支えになってもらいたいと思っています。

と、これで一応終わりかな。

稽古の継続3

この話は大学生で稽古していた人が、社会人になると大半が稽古をやめてしまう理由を考える、というテーマです。
言い直さないと自分が本題を忘れてしまいそうだ。

で、続きですが、第一の問題点はレベルが上がるほど「目標が設定しにくい」ということにあります。それでも大学を卒業するくらいまでは「とどまることなく技がかけられる」などそれなりに目標は立てられるのですが、大体これくらいのキャリアになってくると「次に何を目標にしたらよいか」が見えにくくなります。
一定の動きや技ができるようになると、(上達意欲のある人は)次の目標が必要となります。その際、今できていることは当然目標にならないわけですから、今できていないさらなる高みを目指すことになります。
大学生のクラブの場合、卒業するころにはすでに最上級学年であり、自分に明確な目標を立ててくれる先輩は周囲にほとんどいません。そのため、自分の目標を自分で設定しなければならなくなります。
もちろん、究極の目的ははるか先にあるわけで、その目的のために日々の稽古を積み重ねればよいのだ、という正論は成り立ちます。ただ、ほとんどの人はそんな遠大な目標に従って稽古をすることはできません。
ある程度短期中期で意識できる目標を設定しなければやる気がなえてしまいます。
この「近くの具体的な目標を見失ってやる気がなくなっていく」が型稽古を主体とする柔術の持つ第一の問題点だと思います。

第二に上達に時間がかかる、ということも大きな問題点の一つだと思います。ただし、この問題点は第一の問題点と密接にかかわっているので切り離して考えることはできません。
仮に短期的な目標が設定できたとしても、どれだけ稽古をすればその目標に到達できるかわからなければ、稽古は苦痛になります。「継続は力なり」と簡単に言える人は才能にあふれた人で、今の自分がどれくらいの力を持っていてあとどれくらい稽古すれば次の目標を達成(あるいは近づくことが)できるか、は自分自身にはなかなかわかりません。そんなに強い心を持っている人はなかなかいません。
大学生の場合ここでも、近くで自分のことを客観的かつ(当事者の目線で)見守ってアドバイスしてくれる上級生等がいなければなかなか第二の問題点は解決しません。上級生がいても、その人の視点が悩んでいる当人の視点とずれたアドバイスをすれば、結局本人の悩みは解消されず稽古が苦痛になっていきます。
私の知っている人でも大学卒業後長きに渡ってきちんと稽古して、かつ上達している人はそうした先輩たちに恵まれている場合はほとんどです。

第一と第二の問題が合わさるとさらに悲劇的です。短期中期的な具体的目標があやふやにしか設定できない上に、その目標がどれくらいで達成しうるかという見通しすらたたない。これはもう、全く先の見えないトンネルをトボトボと歩いているようなものだと思います。大学四年生くらい(段位でいえば二段をとる前後位)にこのトンネルに入ってしまう人は多く、稽古しても自分がうまくなっているのかわからない(もちろんなっているのですが、自分が納得できなければ結局意欲に結びつかない)、今までできていた技もできなくなったような気がしてしまう、という気持ちになることが多々あるようです。
加えて、最上級生としての立場や段位などから受けるプレッシャーで「うまくならなければならないのにうまくなれない」という本当にかわいそうな心理になる場合もあります。
その先の話は次に送るとして、

第三の問題は試合などの「明確な基準」がないことです。本来柔術においては、基準は自己の内部にしっかりと作るべきなのでしょうが、これまでにも述べてきた通りよほど精神的に強い人でない限り何らかの依拠できる基準は欲しいものです。
仮にそれが正しい基準ではなくても試合の結果など具体的に明確な基準があれば、それをよすがに稽古を継続することがしやすくなります。これも上の問題と同じですが「うまくなっているよ」と言われるだけではやはり、抽象的すぎて納得はできないのが人情ではないかと思います。<また続く>

稽古の継続2

まず第一に柔術はその型が複雑であるものが多いという特徴があります。
柔術を始めたばかりの人は、何よりもまずその形を覚える必要があります。
合気道でいえば、一教や入身投げでどちらの足を動かすのか、手は右手が前か左手が前かといった超基本すら最初はできません。これを一生懸命覚えることが最初の目標となります。
どのレベルで一通り技ができるようになるかは道場によっても違うでしょうが、ここではすべて大学生を基準にして考えることにするので、一般の道場についてはそれを割り引いた形で考えていただければと思います。
大学生でいえば、大体半年くらい(初めての審査あたり)で「手足を間違えずに技をかけることができる」ようになるように思います。
一通り間違えずに技がかけられるようになると、今度の目標は「たどたどしくない程度に(一連の流れをもって)技をかけられるようになる」ことが目標となります。私はこれができるようになるのが初段になる頃だと思います(初段の審査の時に技を間違えたり、途中でわからなくなって止まってしまうという話もよく聞きます)。
言い方を変えれば、技を間違えられずにかけられるようになれば初段になれる、と言ってもよいのではないかと思います(繰り返しますがそれよりずっとレベルの高い審査を行う大学もあります)。
これが、柔術特有の第一の問題点に繋がると思います。

第二に柔術は上達に長い時間がかかることが一般的という特徴があります。
これは次の第三の点とも関わるのですが、柔術はその名のごとく「柔らかさ」が不可欠な要素となっています。例えるなら丸い作品を仕上げるような作業であるため精緻さが必要となります。その結果、一つの技術が上達するにもかなりの時間が必要となるわけですが、これが第二の問題点に繋がると思います。

第三にこれは合気道に特徴的なことですが、試合がないということも大きな特徴であると考えます。私自身は試合のないことが稽古を続ける者にとって福音であると考えます。試合によって優劣を一義的に決定することは、そうした優劣についていけない者にとっては継続に当たっての壁になります。その点、試合がないことは自分と向かい合って長期で稽古するにはよいと考えます。
ただ、一方で「基準」という点では反対に継続を妨げる要素に転じる可能性が高いと思います。
<くどいが続く>

稽古の継続1

大学を卒業して新社会人になった方々の初給料日も過ぎ、徐々に社会人らしくなってきているのではないかと思います。
と同時に、学生時代やっていた合気道ができなくなってしまう人も多くなることもまた悲しい事実です。
大学時代は週に3日から6日稽古をしていた人たちが合気道を辞めてしまう理由は何か。
おそらく、プロとして合気道をやっている先生方以外で大学生ほど熱心に稽古をしている人たちはいないと思います。
それゆえ、大学一年生で合気道を始めた人でも卒業時にはかなり上手くなっているのが一般的です。
大学1年生で合気道を始めた人は1年から2年で初段をとり、まじめに稽古を継続していれば卒業時には二段をとれるくらいの実力になるのが一般的です。
なのに、社会人になると合気道をやめてしまう。

「社会人になるとなかなか稽古する時間がとれなくなるから」

という答えをこれまでたくさん聞いてきました。
でも、実際就職後も稽古を継続している人はいますし、また大学4年間合気道をやってきた人は到底初心者とはいえないレベルですから、自分の余った時間で効率的に稽古をすることはできるはずです。
また、一時的に非常に忙しくて稽古をすることができない時期があっても、その時期が過ぎれば必ず稽古する時間は作れるはずで永続的に稽古する時間がないという人は非常に少ないと思います。

にも関わらず、ほとんどの人が学生時代にやっていた合気道を辞めてしまう。時間ができるようになっても稽古を再開しないのはなぜか。
そこには、柔術特有の問題があると思います。<続く>

今月のテーマ

これまで4か月「身体つくり」を中心にやってきました。
もちろん、身体つくりは何よりも基本なので、これからもしっかりとやっていくのですが、ある程度稽古のやり方もわかってきたと思うので、しばらくは皆さんの自主稽古に任せるとして(もちろん適時確認して稽古はしましょう)、今月は「小手先の技術」を中心に稽古してみましょう。
身体の使い方と合わせるととても効果的です。

かなり細かいこともやりますが、一つ一つ丁寧にやって、少しでも早く身につけましょう!
もちろん、部外秘です(笑)。

理合が命2

以前、合気道のような柔術は理合がとても大切だ、ということを書きました。
ただ、
「理屈が分かれば大丈夫」
「理屈通りやっていればできるようになる」
と思い込む勘違いをしてしまいがちだと思っています。(大学生なんかに多そうな気がします)

と書くとさらに勘違されそうなので、丁寧に言うと
・理屈を理解してそれにしたがって稽古を続ければ必ずできるようになる。
は正しいと思います。
しかし、この論理には「理屈を理解する」「それをゆがめずに稽古する」「さらに進歩を確認しながら確実に上達する」を欠くことなく継続することが大事です。
例えば「こうやればいいはずだ」と思っていた理合そのものが実は違っていたりすると、間違った稽古をしばらく続けることになりその分上達は遅れます。
これはよく初心者で本を読んで理論を理解しようとする人に多くみられる例です。やはり体術である以上、一定の稽古をつんだ人でなければその理合が正しいかどうかは判断できないと思います。 生兵法・・・というやつです。
また一旦正しい理合を学んでも、稽古を続けているうちにやり方を間違えたり、我流に走ってしまうこともよくあります。常に理合が正しいか、稽古法が正しいかを確認しながら稽古することが必要であると考えます。
加えて一つの技術を理解しても、それを延々と繰り返しているだけでは不足している場合もあります。それぞれの技術の段階に応じた稽古をやらなければ、不必要な足踏みをすることもあるかと思います。
どれ一つの条件をとってもかなり難しいものだといつも痛感しています。
先人は長い年月をかけてそれを身に着けてこられたのであり、道のりの長さを感じます。

言いかえれば「自分だけでも理屈通りやっていればできるようになるけれども、何年も、何十年もかかってしまう可能性も大きい」と思うのです。
合気道を始めて四半世紀以上経ちますが、未だに自分の稽古が間違っているのではないか、と日々びくびくしながら稽古しています。

武道の道のりが長いものであることは間違いありませんし、一朝一夕に上達するものでないことは論をまちません。
また、遠回りすることが時に大切な意味を持つことも重々理解しています。
それでも、少しでも早く上達していきたいというのが人情だと思います。
特に、若い人と稽古していると、彼らとの「持っている時間の猶予」の違いに焦りを感じることもよくあります。
少しでも遠く高く進むために、わがままかもしれませんがちょっとでも効率よく稽古したい。
私以上に、道場生で歳をとって(失礼な表現かもしれませんが)から始めた人にとっては切実な問題でしょう。

なかなか簡単にはできないことですが、日々意識をしながら稽古をしましょう。

歳をとっても

今日稽古に参加して下さった方と話をしたことをこちらにも。

私は柔術の魅力は「歳をとっても続けられること」だと思います。
もちろん、年齢を重ねてもピークを維持し続けるのはとても大変なことだとは思います。

しかし、「技術」によってそれをかなりのレベルで維持できるのが柔術ではないかと思っています。
今武道が好きで一生懸命稽古している、どうせならそれをずっと続けていきたい。

とはいっても柔術なら全部OKかというとそうでもないと思っています。
柔術をやっていても、特に初心者は力任せの技や、勢いに任せた技に走ってしまう人もいます。
そういう人はやはり年齢とともにしんどくなっていくと思います。
さもなければ、惰性に陥って「やれているようなつもり」になって満足してしまう(でも、そうなったらそれはある意味満足できて幸せかもしれませんが)。

私自身はそれがいやなので、無駄をどんどん削ぎ落とし技術の芯だけを残すような、そんな意識を持ちながら稽古をやっていきたいなぁと思います。
もちろんそれぞれの人にそれぞれの目的があるので、それぞれ自分にあった稽古ができればいいと思っています。
名古屋至誠館は(多分)上に述べたような方向性で稽古しているんじゃないかな、と思っています。

やっぱり、いつまでも好きな武道を続けるために「柔術」らしい「柔術」をやらなければ!
いかがです?

理合いが命

剛術には剛術の理論が、柔術には柔術の理論があると思うのですが、剛術はある程度身体を動かすだけでも満足感が得られやすいのに対して、柔術は「うまく」やれないと満足できない場合が多いような気がします。
適当に技をかけているだけでは、なんか嘘くさくなってしまいます。
そのため、どうしてもきちんとした技がかけられるように理合(理屈)の度合いが高くなってしまうように思います。

また、柔術を始める人には、体力と気合だけで稽古を乗り切るのはしんどい、という人も多いような気もします。
そんな人にすれば、やはり体力がそこまでなくても上達できる可能性のある柔術は、動いてなんぼではなく考えながらやってなんぼ、という方が面白いのではないか、と思います。

そんな理由で、少し体力のない人でもうまくなって柔術を楽しめるような稽古ができればな、といつも思っています。