武道と武術

年の初めなので少し真面目なことを。

合気道をはじめる前、空手や中国拳法を学んでいた時からずっと武道と武術について考えていました。
合気道が武道であることは間違いありません。
対して、中国拳法では武道という言葉はあまり使われず武術(うーしゅう)という言葉が使われることが多いです。
国の違いはさておいて、日本に限定して考えるとしても武道と武術の違いはなんなのだろうか?
これは私が武道や武術と言われるものを始めて今日までいまだ結論の出ない命題であります。

時々耳にするのは武道は「道」であって、武術は「技術である」という言葉です。
私が聞く限りでは「道」というものに精神性を求め、技術は物理的なものであるという考え方が多いのですが、この言葉を耳にするといつも思うのが、精神を追究するのであっても、その媒体に無機的な技術が存在することには間違いありません。技術そのものを切り離して精神性のみを追究するのは、ネットに見られる非経験者の武術論・武道論になるような気がします。

武道が哲学や形而上学と一線を画すのは、その根幹に非常に即物的である身体的な技術が存在するからに他ならないと思います(ここで技術と言い切るのは、すべての武道においてその創始に型ではなく敵を倒す実戦があるからです)。
実利的な技術から始まり、それが昇華する過程において生まれてくる精神性はやはり身体的な技術を無視するわけにはいきません。先に述べた精神性を重視する論者の主張する精神が主であり身体が従であるという論旨は、土台の重要性を軽視しているような気がしてどうも好きになれません。

一方でならば、精神性は横に置いておいて技術を追究すればいいのではないか、という考え方にもやはり疑問を抱くのです。
武術における技術というのは「いかにして相手を倒すか」が基本テーゼだと考えます。
その前提の下、剛術でも柔術でもほとんどの武道は一定の条件(設定)を設けています。もちろん多くの武道武術で可能な限り汎用性を高める試みはなされているのですが、やはり場面(シチュエーション)を制限せざるを得ないのが殆どです。
その結果「あの武術はあれより弱い」といった条件設定の異なる武術を引き合いに出されることになります。

どこで、その制限(条件設定)を取り払うにはどうするか、を考えることになります。そうなると割に安直に出てくるのは「武器を使う」ことです。個人的に武器の稽古は大好きなのですが、この一義的な基準に基づく考えで武器に行き着くのはとても嫌いです。
日本の武道武術では武器は剣や棒・杖がメジャーですが、そもそもこれらの武器に限定した稽古そのものが先の条件設定以外に他ならないと思うのです。
条件を取り払う考え方であれば、武器の行き着くところは飛び道具となります。どんなに技術を磨いても飛び道具にはかないません。その意味では枠を取り払って技術論を突き詰めると武術をすること自体に疑問を呈することになりかねません。一方で「銃は武道ではない」と言ってしまうとそれは条件設定にほかならず、そうであれば「素手において」という制限をつけるとしても条件の設定という点ではさほど変わりがないように思います。

結論として私はまだまだ未熟なので、どちらがよいかはおろか、どちらがよりよいかというレベルでさえ、全く判断できません。
今年もその至上命題に一歩でも近づくべく稽古を続けていきたいと思います。

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