「武道についての雑感」カテゴリーアーカイブ

武道に関した雑感

稽古時の注意点について1

特に大人と茶帯の子どもたちにお願いです。

今年もたくさんの白帯の子たちが入門してくれました。
きっと来年もたくさんの子どもが来てくれるのではないかと思います。
それはそれでうれしいことです。

しかし、人が増えると問題も生じます。
一番大きな問題は、稽古の内容です。

人数が少ないうちは、茶帯の子の割合も高く、また私がほとんど全員の子どもを見ることができました。
しかし、最近はあまりに子どもの人数が多くなりすぎたため、私一人では全員を見ることが困難になりました。
最近では有段者の方がしっかりとサポートしてくれるので、かなりきちんと稽古できるようになりました。

大人の方と茶帯の子は、
・自分にとってよい稽古相手が成長する
ことを目標にしっかりと基礎を教えることを常に心がけてください。

どんな人も最初は初心者です。現在高段者の人も最初は初心者でした。
きちんとした稽古を続けてきた結果、上手くなったのです。
中には苦労して自分の力で、きちんとした稽古を続けてきた人もいるでしょう。
でも、できれば最初はいい形で合気道を身に着けられるようにしてあげた方がよいと思います。
合気道の道は長いので、先々で必ず悩みます。
どうせ悩むなら、そういう高いレベルで悩めむ時間が多い方がよいと思います。

私はあまりやり方を制限するのは好きでないですが、やはり基本の部分(かなり基本の部分)はある程度型にはまった形でやる必要があると思います。
長くなりそうなので、具体的な点は次に書きますが、初心者と組む人は是非その点を意識して稽古してあげてください。

修武館2周年記念稽古のDVD

今日は副館長代理補佐さんから依頼されて、先日の修武館の記念稽古のDVDのチェックをしました。
チェックといっても、件の素晴らしい写真集を編集した副館長代理補佐さんに特に「ここをこうして欲しい」などという注文などあるはずもなく、私の仕事は「技の名前を確認する」ことです。

で、田中師範の技のビデオを見たわけですが、本当に勉強になります。
特に技の入りや体の捌き方などは、当初の目的を忘れてついつい何度も見直してしまいました。
しかも、副館長代理補佐さんの憎い演出? によって、拡大再生や、スローモーション再生など
ここがもう一度見たい!
と弟子が思うような場面が漏れなく素晴らしい形でクローズアップされています。

特に胸取りの捌き方や、片手取りの三教の捌きの流れるような動きは、以下に柔術において初動が大切かを感じます。
また、そこがスローモーションになっているところが素敵。

というわけで、散々ハードルを上げていますが、本当に勉強になるDVDが間もなくできあがります。
楽しみに待っていてください。
副館長代理補佐さんよろしくお願いします!

稽古の楽しさ

日曜日の田中先生の稽古は久々に一稽古者として稽古に没頭できて楽しかったです。

先生の弟子として大学で稽古を始めて27年。
休む時なく、ずっと稽古を続けてきました。
やはり稽古者として稽古することは幸せです。

今は道場で教える立場でもありますが、教えるという形だけではなく、現役として可能な限り永く稽古したいと思います。

先日の稽古でも、先生が楽しそうに私を投げていただけたのは、ずっと稽古を続けてきたからだと思うと、本当に稽古を続けてきてよかったと思います。まだまだ受けを取り続けたいですね。
特に先生が私に対して手加減せず、きっちり技をかけていただけたことは本当にうれしかったです。
稽古を続けてきたことを本当によかったと思いました。

合気道は他の武道に比べて非常に理論的な武道であると考えます。
稽古を長く続けるにあたって、色々悩むこともありましたし、今でもたくさん悩んでいます。
それでも思うのは、理論を突き詰めながら稽古することが何より楽しく有意義であると思います。
もちろん、理論だけでは頭でっかちになって論外だと思います。
畳の上の水練ではありませんが、理論は体現されてこそ形を成すと考えます。
理論を求めながら、稽古によって体現する、それこそが合気道を続ける楽しみでもあると思います。
理論あっての合気道であり、また自らの稽古あっての合気道だと思います。

私はまだまだ未熟で現役の稽古者です。
色々悩むところもあると思いますが、皆さんよろしくお願いします。

軸へのこだわり

道場を始めた時からこれまで一貫して軸にこだわった稽古をしています。

私の師匠も近年特にそうですし、講習会等でいろいろな先生方に学ぶごとに、軸の大切さを再認識します。
非力な人が、あるいは力を使わないで技をかけようとする場合、言い換えれば極力力を省いて技をかけようとする場合、「筋力的な力」に替わる別の「」が必要になります。

一見すると合気道の技は不思議な理によって出来上がっているように思えますが、同じ人間が地球の重力の支配下で運動している以上、一般的な物理法則の支配から逃れることはできません。
合気道の不思議?な崩しや技も突き詰めれば、やはり通常の物理法則に従っているのです。
その点については、また別の機会に考えてみたいと思いますが、ともかく物理法則に従っている以上、
相手を動かして投げる=ある一定の力を必要とする
ということになります。

柔術が突き詰めようとする点の一つは、その力をどこから持ってくるか、ということではないかと思います。
合気道の場合、相手を崩したり制したりする力を、「筋力的な力」ではなく「体幹の安定によって生じる(失われない)力」に求めていると思います。

ただ、その「体幹の安定によって生じる(失われない)力」を出す(維持する)ことが難しいのです。わざわざ( )書きしているようにその力自体の感じ方、発露の仕方そのものから人によって主観的な感じ方が異なる力のような気がしています。

人は大型動物なので、かなりの膂力を有しています。特に合気道をはじめてまもない頃はその膂力を使って相手を投げているわけで、その力を使わないで同じだけの物理的効果を求めようとしたら、それは簡単ではありません。
加えて生物学的に「力を使う」ことは自然なことでもあるので、合気道的な軸への追究はある意味、かなり不自然な行為なのかもしれません。

とはいえ、多くの先生方が力を使わない合気道を体現なさっていることを拝見しても、そうした不思議な理への憧れが尽きることはありません。そして、「筋力的な力」を使わないというマニアックかつ高度な技術を身に着けるために不可欠なのが軸の意識と正中線の意識だと考えています。

先ほども述べましたが、その技術を身に着けると傍からみて魔法をかけているように見えるほどのものです。そう簡単には身に付きません。その稽古途上においてはむしろ「何やっているんンだ」と思われるようなことも多々あると思います。しかし、遠い遠い目標に向けてあくまで軸にこだわる合気道をしてみたい、と個人的にも思いますし、きっとそれだけは間違っていないと考えて稽古しています。Noriさんがそうであるように、あくまで徹底的に軸にこだわることは大切だと思います。

11月9日(日)

女子稽古会に行ってまいりました(^^)/

一応、県連加盟団体宛てに公的募集のあった会ではありますが、講習会という形ではなく技も持ち回りの稽古会だったため、全体公開を控えさせていただきます(__)
が、こんな雰囲気で稽古してきたよ、というのをお伝えいたします。

技は基本、3人組になってやります。
お互い技を掛け合うだけでなく、他の方がかけているのを見ることで見取り稽古にもなるようにとのことです。ガンガンやる稽古とは違いますが、じっくり他の方の技を観察(?笑)できます。
また、交流を深められるように、組む度に自己紹介をしていきました。年齢が近そうな方には経歴を聞いてみたり、この技はどんな風にとその方の得意なやり方を聞いてみたりと和やかムードでの稽古会でした。

持ち回りで出された技は
・後ろ取り三教投げ
・袖取り二教
・片手取り四方投げ
・正面打ち入身投げ
・後ろ取り四方投げ
・両手取り天地投げ
・横面打ち四方投げ
・呼吸法ストレッチ

基本の形を確認してやってみたあとに各々好きなやり方で、と言われる方もあれば、技の注意点を細かく説明してくださる方もおられたり、ご自身が稽古される上で意識していること、イメージしていることを参考にとお話しして下さる方も。
同じ持ち回りでも若手の稽古会ともまた違う雰囲気です(^^)

今回参加して思ったことは、やっぱりどれも正しさはあるということ。合気道に正解はないというより、正解がたくさんあるという感じを受けました。
先日の稽古でもあった、一口に側面入身といってもたくさんあるように、片手持ち四方投げでも、まっすぐ体に沿う方向で一歩下がったり、内側に踏み込むように円く崩したり、形としてはどれもが正解だと思います。
いつも思いますが、「わからないから教えてください♪」って言ったもん勝ち(笑) 自分はこう思うとか自分はこうやるとかより、相手がどう思うかどうやるかを聞くのはためになると思っています。
あとは、やはりうまい方はご自分のイメージや意識をしっかり持っておられると思いました。ただ、それは本当にそれぞれの感覚と経験に基づいたものなので、自分なりを見つけるべきなんだなぁと思います。

楽しい稽古会に参加させていただきました(^-^)
いつか自分の身になることを期待しつつ(__)

道場の探し方

先週2件ほど問い合わせの電話をいただいたのですが、その中で感じたことを一つ。

自分自身が稽古をされる場合はもちろん、お子さんに合気道を学ばせるに当たって、是非色々な道場をご覧になることをおすすめします。
お問い合わせいただいた方のうちお一人にはお話したのですが、うちの道場が本当にお子さんにとって一番よい道場かはわかりません。
もちろん、私たちは子どもたちが楽しくかつ厳しく稽古できて、上達できるように日々努力していますが、雰囲気や指導方針にどうしても合わない場合も多々あります。

特にお子さんが入られた後に「やっぱり合わないかも」と思ってしまった場合、やめるのであれば挫折感を、無理につづければ子どもに精神的負担を負わせることになってしまいます。
合気道に携わる者としてせっかく合気道を始めるのであれば、できるだけ長く、できれば一生続けてほしいと思います。
そのためにも、特に最初は無理なく続けられる環境を探してあげてください。

合気道道場の多くは何回か体験できるようにしています。
私自身も本音を言えば、うちだけで体験してすぐ入門してくれた方が仲間が増えてうれしいです。
でも、子どもの合気道に携わる者としては、是非いくつかの道場を体験された上でお子さんの話や表情を見て道場を決めるようにされることを老婆心ながら思います。

もちろん、体験している際は必ず保護者の方はしっかりとお子さんの様子や道場の雰囲気を見学してください。
合気道を単なる一時の習い事としてではなく、一生の習い事にしていだだきたいと思う立場として、お子さんに合った良い道場にめぐり会えることを心より願っております。

受ける!受ける!受ける!

これも最近の稽古で思ったことですが、相変わらず受けることの大切さが十分理解できていないと感じます。

以前も書きましたが、相手の技をきれいに受ける、ということは相手がいい形で技をかけることができるということでもあります。
そして、きれいな形、効果的にかけられる形で技をかけてもらうことでその技がどういう効果を持っているのか理解することができます。

もちろん、受けは怪我をしないようにとるものです。
ただ、技の上達という面においては、できるだけ相手の技がきれいに決まるような受け方、受ける方からしてみればダメージの大きい受けを取るのも大切だと思います。
私個人の考えとしては、技をかける方が「技をかけた」と感じた瞬間に受けをとることが大切だと思います。
あまりよくないのは、相手が「かけた」と思った一瞬あとに受けを取ることです。
こういう受けでは、かける方もどういう感じにかけると技が利くのかわかりませんし、受ける方もどういう風にかけられると一番技が決まるのか(言い換えれば自分がそういう感触で投げれば相手を効果的に投げることができる)わかりません。

個人的には受けを取るのは大好きです。
気持ちよく投げられるとさまざまなものを感じることができます。
特に師匠の田中先生や本部の先生方の受けを取らせていただくときの感触はとても勉強になります。

皆さんもどんどん受けを取って感触を身につけてください。

保護者の視線

いつも稽古の時に感じていることですが
見学されている保護者の視線は非常にありがたい
です。
大体毎回の稽古で稽古終わりになると4名くらいの保護者の方が子どもたちの稽古を見てくださっています。

その目の肥えたことといったら、ある意味本当に「怖い」です。
前で技をやっていても、失敗したらまずい! と思って冷や冷やです、ホント。

稽古をやっていなくても、可愛いわが子の稽古を真剣に見ている親の目は本当に肥えています。
むしろ、実際にやっている子どもや大人よりも身体の動き方や足の使い方など、細かいところまで見ていらっしゃるなぁ、と本当に感心というか感動いたします。

普段はなかなか忙しくて時間のない保護者の方も時々は是非自分の子どもの稽古している姿を「厳しい批評家」の目で見てみてください。
もちろん、子どもは嫌がります。
でも、そんなことは気にしないでください。
親に見られて恥ずかしいよりも、うまくならない方がもっと恥ずかしいのですから。

ということで、保護者の方の見学大歓迎です。
今後ともご指導・ご指摘のほどよろしくお願い申し上げます。

稽古回数について

現在名古屋至誠館では毎週2回の稽古を行っています。
頑張れば週に3日の稽古も可能なのですが、まだそれほど道場もいっぱいになっていない現状では、できるだけ
・大人も子どもも一緒にけいこする
・お互いの顔がわかるように稽古回数を絞る
方がよいと思っています。
稽古日数が増えると、どうしても出席する曜日に偏りができて、顔を合わさない人が生まれてきます。
人数が多くなりすぎたらそれも仕方がないのですが、まだしばらくはできるだけ一緒に稽古した方が上達にもよいと思っています。

ただ最近は人数の増加も踏まえて、稽古後稽古の時間が少しでも長くなるようにして大人の「濃~い」稽古も多めにできるようにしていることと土曜日の午後や桑名の稽古会などプラスアルファの稽古時間も作るようにして月に10日程度は稽古できるようにしています。

Noriさんのようにほとんど全参加される方は別として、月に10日の稽古回数は学校や仕事、家庭を踏まえたら非常に合気道の占めるウエイトは高いのではないかと思います。
月に10日稽古する人はかなり「好き者」ですよね。
ということで、とりあえず皆さん現状の稽古回数に満足していただけているのではないかと思っています。
いかがでしょうか?

剣の稽古

合気道や柔術の理解をする上で、剣の稽古は身体の使い方や正中線についての意識を身に着けるのに役に立つと思っています。
ただ私ができる剣術が鹿島だけなので、鹿島の剣を名古屋至誠館では時々稽古します。

本当はもう少し頻度が高く稽古できるとよいのですが、合気道が主なのでなかなかそうもいきません。
とはいえ、名古屋至誠館には月に1~2回の割合で剣術が得意なゲストが来てくれます。
実はこの1か月でも6回東大OBと金大OBが稽古に参加してくれているので、やる気さえあれば剣術はできるはずなのでず。
普段剣術をやっている人たちに協力してもらって作ったビデオもありますし。

折角有段者の方は相心まで覚えたのですから、忘れないように稽古して下さい。
お願いします。
あ、副館長代理補佐さんとNoriさんはできればNaoさんとスキンさんを見つけたら実戦太刀まで稽古するようにしてくださいね。

最近は稽古後の大人の稽古の時間も確保するようにしていますので、是非剣の稽古をしてください。
袋竹刀もたくさんあるしね。
ありがとう、武。

3つの許さざるところ その1

先日稽古の際に先生がお話された「3つの許さざるところ」について。

もとは誰の教えか失念してしまいましたが、私が先生の弟子入りしてから30年近くずっと稽古の際に先生が言われている言葉です。
その一つが

起きたるを許さず(起こりを許さず)

これは相手が攻撃してこようとするその動作の始まりを抑えることを意味します。
攻撃しようと思っている相手の攻撃が始まってからでは十分な対処ができない。
だから、相手が攻撃をする前に制してしまう。

非常に合理的なのですが、口で言ってもできるものではありません。
というのは、相手がまだ全く攻撃を仕掛ける気がない時点でこちらが動き出せば、それはこちらからの攻撃になります。
柔術の技のほとんどは相手の攻撃を前提として考えられているため、相手の攻撃が出る前にこちらから仕掛けるのでは、相手を十分に制することができない(更には反撃されてしまう)ことになります。

そのため、相手が攻撃しようという気を起こした瞬間に対処をはじめた上で、実際の接触や捌きは相手の攻撃が具体的に始まってから、ということになります。
要するに「相手が動く前に動き始めるけれど、実際に相手と対応するのは相手が動いてから」という非常に難しい要求をされるわけです。
身体的には相手の動きに合わせつつ自分の体の速度や動きをコントロールするという双方向的な意識が必要となります。
ただ、これができればすごく楽に相手を制することができるので、常に意識して稽古しているのですが・・・
やはり難しいです。

合気道の面白さを知るには

今日もお酒がおいしい館長です。

合気道の面白さを知るには何よりも実際に体験してみることが大切です。
合気道はじめ武道については、どうしても「痛い」というイメージがあるため、体験をためらって見学する人がいますが、見学のみだと多分面白さはほとんどわかりません。

合気道は高度に体系化されていますがあくまで武術です。
武術はその全般において身体的所作の妙を追究することを特性としています。
古来より「習うより慣れろ」「体で覚える」という格言があるように、身体的動作はアポステリオリであり、アプリオリでありません。
にもかかわらず、合気道はその理論特性の高さのためにどうしても観念的思考や論理的考察の占めるウエイトが大きく、一方で身体を使って稽古しても容易に技術を体得できません。
そのため、合気道の技の理解はアプリオリに行うものだ、と勘違いする人が多々いるような気がします。

これは個人的な感想ですが、ほとんどの道場において合気道のアポステリオリな面を繰り返し指導していると思うのですが、稽古を継続しアポステリオリの蓄積を図る過程において、技術の言語的表現性の困難さから「体現」よりも「観念」の方に傾倒してしまう人が多い気がします。
自己が体現できない技術については、それを具象的に捉えていると(自分より後から始めた)誰かによって体現されてしまい悲しい気持ちになってしまうかもしれません。固より言語的表現性の困難なものであるならむしろその技術そのものを純粋なテオリアとし、身体に従属するものから思考的な領域に昇華させてしまった方が気が楽だ、と考えているような発言を耳にすることもしばしばです。

おそらくそうした気持ちが多くの人に共有されているがゆえに、合気道の理合いはアポステリオリではなくアプリオリに「思得」するものである(だから難しい)という合気道観が一部に生まれてしまうのだと思います。
もちろん、そこまで極端に考える人は少ないかもしれませんが、それでも(仮に反復稽古で一定の技術を体得しても)いったんは理論として思考的に整頓する必要性があるのは間違いないので、完全に純粋なアポステリオリにはならないと思っています。

とはいえあくまで基本はアポステリオリであり、経験の蓄積を十分に行えば、言語的表現化はできなくても体現は可能になります。人間の意思伝達は言語以外にも数多の手段があるので、十分に体現された技術であればそれは伝承可能であると思います。
これはすべての段階においていえることで、その最初の一歩においても、いや最初の一歩だからこそアプリオリに理解することも、また武道以外の経験を基にしたアレゴリーも不可能だと思うのです。
だからこそ、合気道を始める前の前提段階として合気道の面白さを知るために、まずは体験が何よりも重要だと思うのです。

え、わけわからない?
だからこんなもの読んでいるよりも「体験」するんです(笑)。

協心努力

先だっての修武館の講習会で、先生から

協心努力

というお言葉をいただきました。
明治維新の際の五箇条の御誓文の際に使われた言葉で、
「お互いに心を合わせ、ともに努力する」
という意味です。

名古屋至誠館の仲間が、修武館の仲間が、そして二つの道場が、
互いに相手を思いやりながら心を一つにして頑張ってほしいというお話でした。
設立からこれまでの両道場をずっと見守ってきていただいた先生からの、皆へのお褒めのお言葉でもあり、弟子たちへの願望とこの先の戒めでもあります。

協心努力という言葉は合気道の稽古そのものにもふさわしい言葉だと思います。
和を重んじ、相手と心を一つとすることを目指す武道において協心の上に切磋琢磨することが大切だと思いました。

名古屋至誠館の皆さん、関係者の皆さん、頑張りましょう!

それにしても先生のお話はいつ伺っても奥が深いです。
また皆さんにもお話していただける機会があればと思います。

受け身の稽古 その2

受け身について、「受けを取る側が自分のタイミングで受けられることはまずありません。」というのは「怪我をする場合は受けが自分のタイミングで受けられない」ということか、という質問をいただいたので補足です。

そうだと思います。
例えば、呼吸投げでよく見られる光景ですが、仕手が投げたあとタイミングを調えてから受けを取る人がいます。
もう少し具体的にいうと、仕手が投げた動作をした瞬間に受けを取るのではなく、ワンテンポ遅れて受けを取る、というような受け身です。
こういう人は、仕手が投げるタイミングではなく自分のタイミングで受けを取っている訳です。そのため、仕手が相手を逃がさないように投げた場合に受身のタイミングを計れずに失敗するのです。
特に四方投げのように、受けが相手に完全に拘束された状態で投げられる場合に起こりやすいです。

実は、こういう受けをとる人には更に次の段階があって、何時でも自分のタイミングを取れるように、攻撃の手を弛める癖がつきます。
相手の体をしっかりつかんだり、力を込めて攻撃をすると体が固まってしまうため、柔軟にタイミングを取ることができなくなります。そこで、最初の攻撃の段階で全力を出さないようにしてあらかじめ受けを取る時のために余力を残しておくのです。

合気道の理では受けが「本気で相手を倒すための攻撃をしてくる」ことを前提に技が考えられています。受けが緩い攻撃をしてくるのであれば、自分のタイミングを柔術を使うまでもなく、少し痛みを我慢して攻撃を受けてから反撃すればすみます。別の例を挙げるなら、女性を襲う暴漢が、やさしく抱きしめるようなもので、それを想定するなら多分柔術は不要(というかそこまで高度な技がそもそも必要なくなる)と思います。
逆に言えば、相手の攻撃が破壊力に満ちていたり力がこもったものであるからこそ、高度な理や技術が必要になるのです。

ところが先にも述べたように、受けが苦手な人は無意識に攻撃をゆるめて、自分の受けに備えてしまいます。こういう人に対して理性的な仕手は無理をしてまで技をかけません。そんなことをすれば受けを怪我させてしまうことがわかるからです。ちなみに技をかけられる瞬間に全力で身体に力を入れる人もいますが、これも近いものがあります。
そのため、受けは自分がきちんと受けているような錯覚をしますが、実際には加減をしてもらっているだけで、受けることができてはいません。それだけでなく、手加減をされることでキチンとした技もかけてもらえないため技術もなかなか向上しません。

悪循環なのは、そういう受けをしているにも関わらず自分が受けができていると思うことで、そうなると何かの拍子に怪我をしたり、あるいはいつまでたっても上達しないという迷路に入り込んでしまいます。
そんなことのないよう、できるだけ早い段階からしっかりした受けを取れるように稽古することが怪我をしないためにも、合気道が上達するためにも必要だと信じています。

受け身の稽古

白帯の人が増えて、それなりに稽古が形になってくると、怪我が心配になります。

始めたばかりの頃は初心者も、その相手をする方も何より「怪我をさせない」ことを優先的に考えます。
ただ、その分きちんと技をかけられないので、どうしても稽古としては不十分になりがちです。

ところが少し慣れて来て技術的にも上達してくると、自分自身も「やれそうだ」という気持ちになり、一緒に稽古する人も相手が初心者であることを気に掛けなくなります。
もちろん、一つの方法として常に怪我をしないことを最優先にして、怪我をするような程度では技をかけないという方法もあります。
が、私自身はせっかく合気道を稽古するのであればある程度はしっかり技をかけた方が楽しいと思っているので、単に形だけの稽古にはならない場合がほとんどです。

そういう稽古をしていると、技術・受けともに上達するのですが、時にそのバランスが崩れて怪我をしてしまうことがあります。
武道である以上ある程度危険は踏まえた上で稽古をしているのですが、大きな怪我はやはりするべきではありません。

そのためにも、稽古の時間を割いても受け身の稽古をしっかりとやらなければといつも思っています。
しかし、なかなかそれも思うようにならないので、今月と来月は可能な限り受け身をしっかりと稽古したいと思っています。

怪我をする場面では、受けを取る側が自分のタイミングで受けられることはまずありません。
なので、無理はしないようにしながらもできるだけシビアな受けの稽古をすることで、気持ちと技術の両方を鍛錬する必要があると思います。

自分の指導の未熟さも反省しながら、しばらくは受け身の稽古をしっかりとやるつもりですので、この機会にキチンとした受け身ができるようになってください。

身を守るための武道

ここしばらくテレビのニュースで、凄惨な事件や女性を狙った卑劣な犯罪、ドラッグがらみの事故などを耳にしていろいろ考えています。

どの事件や事故でも被害者には一切過失はなく、ある日いきなり被害に遭っています。
多くの犯罪等については「そういう危険のある場所に近づかない」という対応策が唱えられますし、それは正しいと思います。

しかし、ここ最近の事件を見ていると本当に「避けようがない」ものが多いような気がします。
こういう犯罪や事故に対してまですべて可能性を排除しようとすると、下手するとどこへも出かけられなくなりそうです。
もちろん、わざわざ危険性の高い場所へ行くのは論外ですが、「普通は危険だと誰も考えない場所」(たとえば駅前の広い歩道の上など)を避けることはできないし、そこまでしたくはありません。
でも、確率論的には非常に低くても、事故や犯罪には遭いたくない。

結局は「予想外の危険に対応できる力」が何よりも重要になってくるように思えます。
例えば私のような男はひったくりや暴漢にまず襲われませんが、女性はターゲットになりやすいでしょう。
でも、常に危険を想定して歩くこともできないですし、先ほど述べたように事前に可能性を排除していてはどこへも出かけられません。
となると、危険の起こる直前に危険を感じ取るか、いきなり降りかかった災難の矛先をそらして被害を防ぐ、またはできるだけ小さくする、ということが実は一番大切なのかもしれません。

そう考えると、女性や子どもにこそ武道は必要不可欠なもののような気がします。
道場ではいつも話をしていますが、武道で肝要なのは戦うことではありません。
極力戦わない、でもいざという時のために身体と心を鍛えておく。
また戦いについても、一律の基準やものさしはありません。
いざというとき、個々が目的とする成果を達成できればそれがその人にとっての勝ちとなります。

女性であれば(もちろん男性でも同じことが言えますが犯罪の話なので特に女性は)、相手を打ちのめして満足するのではなく、自分の身に降りかかる災難をかわすというのも立派な戦いにおける勝ちであると思います。相手を叩きのめすまで戦う必要はないですし、そもそもそのために戦うわけではありません。
そういう「戦闘」を目的としない鍛錬ができるのが武道であり合気道であると思います。

いやな時代ではありますが、自分の身は自分で守らなければならないですよね、やっぱり。

副館長代理補佐の独り言(武具)

皆さん、お酒の話題提供ありがとうございました。
これでお酒の話題に少しはついていけます。m(_ _)m

またまた皆さんにお願いがあります。
これも職場の話ですが、極真空手をしている方と話をしているときに
どんな武具を持っているか、使ったことがあるかと話したのですが
『刀』『杖』『ヌンチャク』『トンファー』『サイ』まではわかったのですが
それ以上何を言っているのかわかりませんでした。(ーー;)

我が家には『木剣』『杖』しかありません。

皆さんはどんな武具を持っていますか?
また面白い、珍しい武具もしっていたら教えてください。m(_ _)m

あ!先生!『誘い』ではないですよ。
・・・_φ( ̄ー ̄ )

「自分の合気」を目指して3(補足)

本題からそれるので、後回しにしましたが、以前稽古方法について質問を受けたこととも関わるので触れておきます。

前の記述で道場の稽古スタイルを二つあげました。
 (1) 単一の目的に向かって、統一された稽古を行なう
 (2) 個々の目的に向かって、それぞれが稽古を自分なりに解釈する

この長短について大まかに述べておきます。
(1)のスタイルの道場では、「このやり方をしなさい」と統一された単一の方法を教えてくれます。そのため、門人は自身が向上するためにどのような稽古をするべきか悩む必要はありません。指導されたことをしっかり稽古すれば必ずその目的とする方向に向かった稽古をすることができます。
それゆえ、長所として特に最初の頃は成長のスピードが速く、あるレベルまでは迷う事もなく上達することができます。
しかし一方で、同じ点において短所が存在します。
道場の目的と最初から最後まで目的が一致している人でかつ、稽古方法もその人に適している場合はこれほど理想的な稽古方法はないのですが、自分の目的が道場の目的と一致しない場合や稽古方法が自分にあっていない(その稽古方法ではなかなか上達できないと感じる)場合には非常につらくなります。
指導される稽古方法を続けて上達したとしてもそれが自分の目指すものでなかったり、一生懸命やっているのに全然上達しなかったりと、本人にとっては本当に深刻な悩みになるケースが多いです。

(2)のスタイルの道場では、「自分で考えなさい」と放り出されてしまう部分があります。そのため、門人は自身が向上するためにまず何をやったらよいかから悩まなければなりません。特に最初は何をやったらよいかわからないので、色々なことを試してみて雑食になったりします。自分の稽古する方向が簡単にはみつかりません。
それゆえ、短所として最初の頃は成長のスピードが遅く、また人によっては「この道場はあんまりきちんと教えてくれない」「もっと簡単な方法を教えてほしい」と思ったりします。
このスタイルの長所が現れるのは、有段者になって以降だと思います。
最初の悩ましい時期を超えて、一通り技ができるようになってくると、次第に自分の目指すべき方向も見えてきます。また、自分が抱いていた当初の目的が変わった場合や自分の資質や技術の上達の過程に合わせて稽古方法を組み直したり修正することが常にできます。最初から方向を探すことを稽古の一環としてきたからです。
最初にかなり悩みながら時間をかけて稽古することができない人には向かないスタイルかもしれません。

上記のように、それぞれ一長一短があります。どちらがよい、とは多分結論できないと思います。
その上で、私自身は道場のより多くの仲間とよい長くに渡って一緒に稽古をしたい、という思いからじれったいと思われるかもしれませんが(2)のスタイルを採っています。
道場生のみなさんのご理解をよろしくお願いします。

「自分の合気」を目指して2

私はそれぞれ違った目的をもって合気道の稽古をするので構わないと思っています。
では、その上でどうやって自分の合気道を作り上げていくかですが・・・

もし、単一の目的で統括された道場であれば、普段の稽古においても、また講習会等で学んだことであっても、みな統一の解釈をもって稽古に取り入れた方が合理的です。
むしろ、それぞれが勝手に自分流を求めて道場の方針とする稽古以外のものを取り入れるのは、自身にとっても道場にとってもマイナスにしかなりません。
何よりも道場の指導者の先生の教えを第一に(以上に唯一に)忠実に学ぶべきだと思います。

しかし、個々の目的が違う道場では反対にそういう稽古はできません。
単一の稽古を行なってしまうと、門人の中には自分の目的が全く達成できなくなってしまう人が出てくるからです。

では、稽古を行なう方はどうするか。
実はそんなに難しくはありません。仮に道場の目的が単一だろうがそうでなかろうが、指導者の考え方・技は結局一通りしかないわけですから、自分の考え方と稽古を行なうしかありません。
つまり道場のスタイルがどんなだろうが、結局指導者にできる稽古スタイルは一つ、ということです。

では、門人はどうするのか?
普段の稽古が一通りしかない以上、その稽古をもとに自分の合気道を作り上げていくしかありません。ただし、稽古は一通りでも目的が複数あるので、稽古をどのように解釈するかは個人に委ねられることになります。
別の言い方をすれば、稽古として与えられるものはみな同じですが、それを糧にどのように成長するかは個人次第、つまり基本となる部分から自分で作り上げていくというわけです。この方法は単一の目的で導かれるのと異なってある意味放置されるわけですから、自分の形を作り上げていくのに非常に長い時間がかかります。

ここまで書けば気が付かれる方もいるかと思いますが、名古屋至誠館でできるだけゲストの人の稽古や講習会への参加を進める理由は、「できるだけ色々なスタイル」を学んでもらうためなのです。
普段の稽古が一通りしかないことは、例えれば毎日が肉や魚に偏った食事をするのに近いと思います。食べ物でいえば、「これだけ食べればよい」という食品はありません。いろいろな食品すべてに必要な栄養素が含まれていて、そのバランスが大切なのです。
とすれば、普段の稽古以外の稽古を経験することで、普段摂取することのできない要素を吸収して、自分の合気道を作り上げる糧にしてもらうことが私のできることの一つだと考えるのです。
もちろん、色々なものを食べれば消化不良になることもあります。また、他の合気道や稽古、武道に心惹かれる時もあると思います。そんなことが一切ないとしたらそれは人間ではないような気がします。
その際は、(消化剤として偏っていることは承知の上で)その人の目指すものにむけてどういう稽古をしたらよいのか一緒に悩むのが私の役割だと思っています。人間は雑食動物なので、稽古においても時に色々なものにチャレンジしてみてよいのではないかと思います。

そういう経験や姿勢そのものが同時に、自分らしい合気道を作り上げていく原動力にもなるのではないかと思います。

なので、どんどん自分のやってみたいことをやってみて、それを頑張って消化しようとしてみて下さい。その消化を手伝ってくれるのが仲間だと思います。
食べ物でも咀嚼はゆっくり数多く、といわれますよね。
慌てる必要はありませんよ、Noriさん。まだまだ寿命は長いです。多分。

「自分の合気」を目指して1

土曜日は午前の東郷の稽古、午後の桑名の稽古会ともに充実していて楽しかったです。
特に午後は今回は4道場から参加者があって稽古にバリエーションがあったと思います。
自由形式の稽古会ならではだと思います。
ありがとうございます。Naoさん。

さて、Noriさんの稽古日誌にもありましたが、どうやって色々なものを消化して「自分の合気道」を作り上げていくか、というのはとても難しい課題だと思います。
というのは、そもそも合気道や武道に何を求めるかという一番基本的な点でそれぞれの目標が異なっているからです。
 ・人格を磨き上げたい人
 ・武術としての合気道を追究したい人
 ・より多くの技術を身に着けたい人
 ・稽古を通して和を求めたい人
 ・いつくかの目的を複合的に求める人

道場によっては、この中の一つのみを是とし、他の目的での稽古を許さないところもあります。実は個人的にはそういう道場が合理的だと思います。
というのは、あれもこれもいいよ、という姿勢を取るとどうしても極めることができなくなってしまいます。
例えば、技術の追究を目指す人と和を求める人のどちらも認める、という姿勢を取るとどうしても双方向きの稽古を織り交ぜることになります。そのため、時には自分のやりたくない稽古をやらなければならないことも出てきます。
これに対して、道場の目的をただ一つのみと定めれば、指導者はその目的とするところに向かって稽古をすればよいですし、またそれ以外の目標を求めることを禁止するのが当然となり、一つの目的に向かった稽古の質は飛躍的に向上します。別の言い方をすれば、単一目的に限定された道場では、何よりも道場の目的に向かって指導者が経験上一番よいと思う稽古をするのが合理的であり、弟子も(当然同じ目的を持つゆえに所属するのですから)それを逸脱することは却って上達の阻害となるわけです。

かつては少数の門人のみで唯一の目的を目指して稽古をした道場もたくさんありました。
現在はどうなのかはよくわかりませんが、きっとまだ世の中にはそういう道場もたくさんあるのでしょう。

名古屋至誠館は残念ながらそういう単一目的の道場ではありません。
色々な人が集い、色々な目的で合気道を学ぶ。
そういう道場です。

では、そういう道場ではどうやって自分の合気道を作り上げるかですが、それは次回に。