今日もお酒がおいしい館長です。
合気道の面白さを知るには何よりも実際に体験してみることが大切です。
合気道はじめ武道については、どうしても「痛い」というイメージがあるため、体験をためらって見学する人がいますが、見学のみだと多分面白さはほとんどわかりません。
合気道は高度に体系化されていますがあくまで武術です。
武術はその全般において身体的所作の妙を追究することを特性としています。
古来より「習うより慣れろ」「体で覚える」という格言があるように、身体的動作はアポステリオリであり、アプリオリでありません。
にもかかわらず、合気道はその理論特性の高さのためにどうしても観念的思考や論理的考察の占めるウエイトが大きく、一方で身体を使って稽古しても容易に技術を体得できません。
そのため、合気道の技の理解はアプリオリに行うものだ、と勘違いする人が多々いるような気がします。
これは個人的な感想ですが、ほとんどの道場において合気道のアポステリオリな面を繰り返し指導していると思うのですが、稽古を継続しアポステリオリの蓄積を図る過程において、技術の言語的表現性の困難さから「体現」よりも「観念」の方に傾倒してしまう人が多い気がします。
自己が体現できない技術については、それを具象的に捉えていると(自分より後から始めた)誰かによって体現されてしまい悲しい気持ちになってしまうかもしれません。固より言語的表現性の困難なものであるならむしろその技術そのものを純粋なテオリアとし、身体に従属するものから思考的な領域に昇華させてしまった方が気が楽だ、と考えているような発言を耳にすることもしばしばです。
おそらくそうした気持ちが多くの人に共有されているがゆえに、合気道の理合いはアポステリオリではなくアプリオリに「思得」するものである(だから難しい)という合気道観が一部に生まれてしまうのだと思います。
もちろん、そこまで極端に考える人は少ないかもしれませんが、それでも(仮に反復稽古で一定の技術を体得しても)いったんは理論として思考的に整頓する必要性があるのは間違いないので、完全に純粋なアポステリオリにはならないと思っています。
とはいえあくまで基本はアポステリオリであり、経験の蓄積を十分に行えば、言語的表現化はできなくても体現は可能になります。人間の意思伝達は言語以外にも数多の手段があるので、十分に体現された技術であればそれは伝承可能であると思います。
これはすべての段階においていえることで、その最初の一歩においても、いや最初の一歩だからこそアプリオリに理解することも、また武道以外の経験を基にしたアレゴリーも不可能だと思うのです。
だからこそ、合気道を始める前の前提段階として合気道の面白さを知るために、まずは体験が何よりも重要だと思うのです。
え、わけわからない?
だからこんなもの読んでいるよりも「体験」するんです(笑)。
こういう話を聞くと、私が合気道を始めた時のことを思い出します。
私が合気道を初めてまだ、1〜2週間ぐらいのときだったと思います。
多分、呼吸投げだったと思いますが、
よくわからなかったので
『先生!この投げられる意味がよくわかりません』
と先生に言ったら、コテンパンに投げられました。
私はヘロヘロなのに先生は息一つ切れてない。
しかも、全然、痛くなかったです。
素人の私が頭を全く打たなかったのは先生がうまく導いてくれていたからでしょうね。
あれがなかったらここまで合気道を続けていたかわかりません。
多分、今、道場にいる人たちの大半は先生に往なされたことに驚いて
『いつかは自分でこんな風にできるようになりたい』
と思っていると思います。
先生が言うように合気道は体験すると面白いと思いますよ。
全文読むのに、何度「コトバンク」と使ったことか、、、
目が血走ってます。。。(あっ!これは花粉症のせいか^^)
読むのが面倒な方!
「見学のみだと多分面白さはほとんどわかりません。」
「「体験」するんです(笑)。」
という事で、、、是非体験してみて下さい!
あれ?
リアクションHの好みそうな「小難しい」話ではなかってですか?
ヒェ~~~(*_*;
やってみないと面白さはわからないと思います。
とにかく、見学に来てください。見学に来たからには、体験して下さい。
入門するかどうかはそれから悩めば良いと思います。
子供・女性・オヤジ・初心者・経験者それぞれ楽しくやってます。