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技術と惰性

合気道に限らず柔術の稽古では、技術と惰性を勘違いしないようにしなければならないと思っていますし、門人の皆さんにも話をしています。
特に私は好みが「柔らかい技」(適切な表現でなければすみません)なので、相手をねじ伏せる、といった技の稽古はあまりしません(多分)。
好きな稽古の一つに、相手に手を持たれたときにその力を吸収したり(これも適切な表現でないかも)誘導したりする稽古がありますが、この稽古が非常に危険を含んでいると考えます。
実際にはそうする技術がなくても反復で繰り返しているうちにお互いが暗示にかかって「まるで技にかかっている」かのような錯覚に陥ることがあります。
特に一方が上級者だと持ち方の指示を出したり、タイミングを計ったりするのがうまいため、「その形ならうまくかかる」ような形で技をかかっていたり「その人に合わせたタイミングで技をかけて」いるに過ぎないのに、誰に対しても通ずる技術を持っているかのように勘違いしてしまうことがよくあります。さらに、実際にはかかっているか疑問を抱いても、周囲の空気から「かかっていないんでは・・・」と言い出せない(言い出さないことは大人でもあるのですが)雰囲気があるとさらに困ったことになります。
この惰性と反復を見分けるのが難しいのでいつも悩むのですが、私見として、持ち方や方が非常に限定的であったり、ある形ではいつもかかるのに形が変わったりすると同じ理合いのはずなのにかからない場合や技の一部分だけしかやっていない、という状況にしらないうちになっている場合は技術ではなく惰性でないかと自分を疑うようにしています。
もちろん稽古において何より大切なのはきれいな形で反復することなので、いちいち抵抗してみたりするのは間違いだと思うのですが、やはり稽古自体にそうしたリスクがあることは否定できません。そこが柔術の稽古の難しいところではないかな、と思います。そういう意味では反対に講習会などで、はじめて組んでいきなりポーンと投げてしまう先生方はすごいなぁ、といつも投げられるたびに感動します。

稽古をしないとストレスが

先週末は大人みんなの予定が合わずに稽古無し、でした。

10名ちょっとの小さな道場なのでしかたありませんが、私用も含めて一週間稽古がないととてもストレスが溜まります。
春先はいろいろとはずせない予定も入っていて、どうしても稽古に参加できない(特に今年は仏事が多すぎて・・・)のは仕方がないのですが、やっぱり定期的に稽古しないとモヤモヤしてしまいます。
ストレスが溜まると誰かとガンガン投げ合ってすっきりしたくなります。
それが「いい稽古」かどうかは別として。

あ~、稽古したい。

 

カウントが!

いつの間にかカウントが2000を超えました!

うーん、結構たくさんの人がのぞいてくれているんですね。
ちょっと嬉しいです。
もしかすると以前一緒に稽古していた人も「こっそり」見に来てくれているのかもしれません。
それ嬉しいですね。

せっかくなので、コメント残してくれるともっと嬉しいのですが。
web上にコメントは・・・という方は問い合わせフォームを利用してのコメンも大歓迎です。
その場合はアップはしません、もちろん。

 

感謝の気持ちでいっぱいです

前の道場を出て以来、たくさんの方からはげましと応援の言葉をいただいています。

私が稽古を続けているか心配してくださっている方がほとんどで感謝の気持ちでいっぱいです。ありがとうございます。

今日も県連でお世話になっている先生からお電話をいただきました。いかにたくさんの人に支えられているか改めて感じます。

皆さま今後ともよろしくお願いします。

 

ぼやきです(愚痴じゃありません)

最近の稽古は基礎の向上にかなりいい線をいっているのではないか、と思っています。なので、不満は全くありません。

で、時々ふっと「組太刀をやりたいな」と思うことがあります。

併せて門人の皆さんにも剣の稽古の時間を取りたいな、とも思うことがあります。時間は限られているし、悩ましいです。

とりあえず、自分自身の稽古のためにも、誰か組太刀やりに来てくれないかな、と思っています。

 

力を入れる

最近力を抜くことばかり書いていたら、どうも「力を入れること=悪」と思われているんじゃないかと思えてきたので、力を入れることについて書いてみようと思います。 技の効果を考えた場合、例えば投げ技などでは、完全に力を抜いているより力を入れた方が強く投げることができるのは事実です。

問題は「どのタイミングで」「どの程度の」力を入れるか、ということだと思います。力を入れるタイミングが早いと、そこから先は単に膂力の差で相手を押さえつけたり締め付けたりする力技になってしまうと考えます。この場合、一度でも力を緩めると技の効果が激減してしまうため、常に加増的に力を加え続けていかなければならなくなるはずです。 逆に力を入れるタイミングが遅いと自分自身に肩すかしをするような拍子抜けた形になってしまいます。丁度良いタイミングで力を入れることができて初めて効果が倍増することになると思います。 とはいっても、何よりもその「丁度良いタイミング」を探し求めることが一番難しいのですが。稽古の中で、自分でもうまくいかないし、説明もなかなかうまくできないし。

長くなったので、力を入れる程度については、また改めて書きたいと思います。

力を抜く2

力を抜く稽古はとても難しいと思います。力を抜く練習をしているときにやってしまいがちなのが、妙にふにゃふにゃになって軸や重心までも失ってしまうことや、実は力みが残っているのに「抜いたつもり」になってしまうことです。

稽古している本人にとって特に困るのは「抜いたつもり」になることだと思います。実際には力んでいる状態なのに、それを「力が抜けている状態」だと勘違いして意識と身体に覚え込ませる(刷り込ませる)ことをしてしまうと、後々修正が非常に困難になってしまいます。自分では力が抜けてきたつもりなのに、なかなか技がかからないという状態は焦りやストレスの原因になります。もちろん、さらに稽古を重ねていけば修正はされていくのでしょうが、「本当は力が抜けていない状態」を「力が抜けている状態」と思い込むと基準や尺度を誤ってしまい、なかなか望むものを身につけられない、あるいは不必要に多くの時間がかかってしまうのではないかと思います。

自分自身もそうですが、力を抜く稽古は慎重にやらなければいけない、と思っています。
本当に難しいと思います。

 

稽古日誌3月16日

今日の稽古は自由稽古でした。
子どもも大人もそれぞれの課題を見つけて稽古していました。
なので、私自身のコメントはありません。

代わりに今日の子どもの技をアップしてみました。こちらです。

意識と身体2

以前意識が主で身体が従だと書きましたが、身体は単に従であればよいわけではなく、一定の自律性を持ちながら従であることが不可欠であると考えます。
身体が自律性を持つということは、体に対して一定の命令(作為的な動作を意識が要求)することなくても、一定の意識の動きや技に対して合理的に反応するような身体を作ることだと思います。
少しやわらかい表現を使うなら、「どんな状況においても身体が勝手に調整して重心や軸を安定させ続けるようになること」と換言できるでしょう。
そうした自律性が身体の基礎として存在した上に、自律的な動きではない所作を意識の要求に従って行い、かつその際にも身体の自律機能が働くことで高度な調整機能が働いた結果として複雑な動きが可能になるのだ、と考えます。

同じ話は重なるもので・・・

ある夏に自宅でゴーヤを栽培して、食べきれないほどの大豊作でした。で、そんなときに限っていろいろな方からゴーヤのおすそ分けをいただき、毎日食卓がゴーヤ祭りだった「苦い」体験があります。
いきなりくだらない例で申し訳ないのですが、何かの拍子で同じような話が耳に入ってくることがよくあります。

最近、知り合いから「何のために合気道を続けているのかよくわからなくなっている」「このまま合気道を続けるかどうか迷っている」という話(というか愚痴だと思うのですが)を続けて聞きました。
合気道、いや武道全般についていえると思うのですが、目的は別に何でもよいのではないかと思います。例えば、ビールをおいしく飲むために体を動かして汗をかく、仕事以外の仲間を見つけに行く、稽古に行くことを考えると会社のストレスが発散される、など別に不純な動機などというものはないと思います。
ただ、当然の流れでそういう話の際には「どうして合気道を続けているのか?」と聞かれます。
私の答えは単純で「うまくなりたいから」。もちろん、稽古後の飲み会は大好きですし、仲間とのおしゃべりも楽しいです。が、やっぱり何と言ってもうまくなりたい。やはりこれが一番にあります。「うまくなりたい」と思って稽古していると、稽古自体も楽しくなる(と私自身は)思っています。
稽古は厳しい方が好きなのですが、楽しくない稽古は嫌いです。一見矛盾しているように聞こえるのですが、稽古の先にあるものに希望を抱いて行える稽古は「楽しい」し、稽古自体の目的が見出せなかったり、余計なことに気を遣って稽古に集中できなかったりするのはつまらない。
私は単に稽古好きなので、そんな風にしか答えられないのですが、そんな話をしたら「少し吹っ切れた」と言ってくれた友人がいたので、ちょっとブログにも書いてみようかなと思いました。

3月13日稽古日誌

今日の稽古で口にしたことは、「自分の身体の動きを自分で感じる」です。

動きを身につけるのには何より反復稽古が大切なのですが、反復を繰り返していると惰性やリズムで動くようになってしまったり、勢いで技をかけるようになってしまうので身体感覚を磨く稽古をしたいときには気を付けなければならないと思っています。

稽古の際に大人がする話は子どもには難しいところもあるかと思いますが、それでよいと思っています。私から見ていてわからない部分があっても自分なりの解釈をして考えて稽古してくれています。とてもありがたいし、楽しみです。

大人の人はもっと悩んでいいですが、もう少し反復を繰り返すようにして下さい。考えて身体がとまってしまっては「身につか」ないので。

 

 

昇級昇段と納得

春に昇級昇段審査をやるところは多く、そろそろ昇級昇段シーズン真っ盛りとなります。

審査を受ける人にとって「どのタイミングで昇級昇段するか」はとても悩ましい問題だと思います。特に真剣に合気道をやっている人ほど悩むのではないかと思います。

これは単なる推測ですが、教えている先生方は教え子にどんどん上達してもらいたいという気持ちもあるでしょうから(心を鬼にして、というのは別として)心情としては、早く昇級昇段して欲しいと思われるのではないでしょうか。

一方で教えられている方としてみれば、自分の現状に満足できる人などいるはずもなく(いたらそちらの方が問題だとおもいます)、昇級昇段には消極的になる人が多いのではないでしょうか。

私見を述べれば、受ける側は自分が納得していない状態ではやはり審査を受けないのが基本ではないかと思います。まじめに取り組んでいればいるほど、不十分な状態で昇級昇段することは自分が真剣にやっている武道自体への不信感につながりかねないと思うのです。武道が単なる技術でないことはほとんど方がおっしゃていることで、その意味でも心の納得が必要なのではないかと思います。

とはいえ、自分の完全な納得や満足を待っていたのでは、永遠に昇段しない人も現れかねません。なので、妥協点として「自分自身は満足できていないけれど、先生(師範)から審査を受けるように言われてその理由に納得できた」場合には、受検してもいいのかな、と思います。

ただ、これはあくまで「受ける側の論理」であり、「受けさせる側の論理」からしてみれば、受けて欲しいところもあって悩ましいのではあるのですが。

子どもの習い事

合気道とは直接関係ない話ですが・・・。

もうじき4月で、新しい学年のはじまりです。この時期になると保護者の方から習い事について話を伺ったり、相談を受けたりすることが多くなります(仕事柄もありますが)。

そういう話をする際に、いつも話をさせていただくこととして、「子どもはとても気を遣うので、親はそれ以上に気を遣わなければならない」があります。

仕事柄子ども(といっても仕事の場合10代後半の青年ですが)の相談を受けることが多く、子どもがいかに親や他人に気を遣っているか感じさせられます。

子どもは自分の習っている習い事(典型的なのは学習塾だと思っています)があまり好きでなくても、親が「行きなさい」と言ったり、「やめたい」というと先生が可哀そうだから、という気遣いをして我慢をしていることが多々あります。

しかし、こういう気持ちで習い事していても何一つよいことはないと思います。以前「型にはめる」ということを書きましたが、そういう厳しさはあくまでも子どもの積極性があって初めて成り立つことだと思います。いやいやながら気を遣って習い事をしていると、習い事そのものも嫌になり、それをやらせる周囲の大人も信じられなくなり、結局のところ醒めた大人以上に「しょうがないから行っておくか」と醒めた子どもができるように思います。

でも、子どもは周囲に気を遣ってそんな気持ちは表面に表しません。それに気づいてあげることが親の責任であり、また難しいところだろうと思います。

 

 

好きな稽古スタイル

色々な道場で稽古に参加させていただくと、稽古の雰囲気は道場によってずいぶん違うなあという印象を持ちます。

大学時代の合気道部が多い時で100人近くいたので、大人数でバンバンやる稽古は個人的に大好きです。といっても少人数でやる稽古が嫌いなわけでなく、大人10名くらいでやる稽古もそれはそれで好きです。

名古屋至誠館の稽古は結構考えながら稽古するところもあるので、自分の経験からはかなり静かな落ち着いた稽古のような気がします。

色々な人が稽古に参加しに来てくれて、時には違った雰囲気の稽古ができるともっと楽しいかな、とも思います。

速く動くこと

合気道に限らず、武道は(求道精神的な部分は別として)相手に対する技術なので、相手より速く動けばあるいは相手が予想しているよりも速く動けば「速い」ということになります。
とはいえ、合気道の稽古で筋力や瞬発力を訓練するわけではないので、そうそう「物理的なスピード」が上がるわけではないと考えます。

では、武道における速さはどのように磨かれるのかを考えることになるのですが、個人的には
(1) 少しでも動きの無駄をなくす
(2) 相手との相対的な関係で「速い」と感じさせる
この2つを組み合わせることで、あたかも一瞬にして相手の懐に潜りこんだように感じさせたりすることができるのではないかと思っています。特に上級者の方々は(2)に長けていると思います。

稽古の中でもこうしたことは説明したり考えたりするのですが、頭でわかっていてもなかなか感覚が身につかないもので、何年何十年もかけてようやくできるようになるのだろうと覚悟しています。
道場の仲間といろいろ試しながら少しでも効率的に、と稽古するのですが自分自身が未熟なため、うまく説明できず悶々としています。

子どもの門人の成長!

ここしばらくの道場の子ども達の成長には驚いています。

年齢的にも小学校高学年の子が多く、また合気道歴も5年近い子が多いという幸運もあってか、とてもよい稽古ができています。
稽古内容は大人と全く同じで、稽古の際に子ども向けの説明など一切していないのですが、子ども特有の柔軟さと吸収力で頭と体が硬くなった大人を尻目にすごい勢いで成長しているような気がします。
どんな要求をしてもこなしてくれる心と身体の強さは、こちらが「じゃあ次は何をやってみようか・・」とワクワクするほどで、私は毎回の稽古をとても楽しみにしています。
そして、時に子ども達が見せてくれる技術に身が震えることもあるほどです。
もちろん、まだまだ課題はたくさんありますが、子ども達の成長と将来がとても楽しみです。

本来仲間が増えることは喜ばしいことでしょうが、しばらくの間子どもは今のメンバーだけで稽古したいな、と思ってしまいます。
私のことをよく知っている人にしかわからない話で恐縮ですが、子どもについてはこれまでこれほど恵まれたメンバーで稽古できたことはありません。
まさに天の采配と感謝しています。

折角なので、さらに稽古を厳しくしようかな、と思っています。

武道を続ける意味

今日は3月11日です。東日本大震災から2年。

昨日からテレビ等の報道を見るにつけ、被災された方々やその関係者の悲しみは今も癒えないことを聞いて心が痛くなります。

と同時に、自分がやっている武道はいざという場面で一体どんな意味を持つのか、つい考えてしまいます。逆境に遭っても挫けない心か、厳しい環境の中で耐え抜く丈夫な身体か、瞬時の判断か、覚悟する心か。考えれば考えるほどわからなくなってしまいます。

具体的な根拠はないのですが、感覚的にそれでも武道を続けることはいざという時にきっと意味を持つだろうと漠然と思っています。そして、何より今も武道を続けていられることに深い喜びと感謝を感じています。

被災地の一日も早い復興と、被害にあった方々のご冥福とご回復を心よりお祈りいたします。

子どもの集中力

小さな子どもに単純な稽古(同じ技や基本動作を繰り返させる)をさせることは悩ましいといつも思います。

同じ稽古を続けているとどうしても集中力が切れてだらだらしたり遊びだしたりしてしまうので、集中力を維持するためにも稽古内容を変えていく必要があります。

難しいのは、適度に変化を持たせながら、一連の共通性を維持していくことだと思います。子どもにしてみればやっていることが変わって集中力を持続しながら、実際には同質の稽古を反復すれば、効率よく基本や技術を身につけることができるはずです。

子ども集中力を維持させるという点でも子どもの稽古を考えることは難しいと思います。

技の種類2

今度は稽古においての技の種類を増やすことについて考えてみたいのですが、これも基本的には好きです。
技の数が増えることは、自分の技術の確認に便利だと思いますし、バリエーションが変わることに対応できるかどうかは稽古する人にとっては結構重要な問題だと思っています。

ただ一方で、技の数を増やすことは目先の技術にとらわれて、今どんな基本を大切にするべきかを見失いがちになってしまうというリスクも大きくなるかと思います。
また、バリエーションは純粋に動きのパターンの掛け合わせで考えられるものではなく、やはりそれぞれの技の「」にかなったものでなければならないと思います。
少し慣れた(初心者ではなくなった)人でよく見かけるのが、技の種類を増やすために「理」に合わない無理な動きの組み合わせをこじつけている人ですが、理に適っていない動きや技は、基本も崩しかねない気がするので怖い気がします。

そんな風に考えると、技の種類は絞って基本を重視する方がリスクは少ないのかなと思うのですが、それに徹するのもなかなか難しいだろう、と稽古をしていて思います。

技の種類1

合気道には数千数万の技がある、という説明を時々見かけます。
それと同じくらいの頻度で、合気道の基本の動きは限られていて技の数はそのバリエーションに過ぎない、という説明も見かけます。

どちらの説明も正しくて、ただ前者の説明は合気道の可能性を積極的に表現したり、技術をできるだけたくさんのバリエーションで稽古したい場合に使われ、後者の説明は何よりも基本を大事にすることを優先して、バリエーションはわざわざ説明しなくても自分でたどり着くだろうという考えによるものではないかと思っています。
なので、どちらが正しくどちらが間違っているとは思っていません。

ただバリエーションの数が気になるので、ちょっと具体的に考えてみると
・攻撃の種類:正面打、横面打、方手取、両手取、後取 でとりあえず5種類
・体勢:立技、座技、半身半立 で3種類
・裁きの種類:入身、転換 で2種類
・技の種類:一教、二教、三教、四方投、入身投、天地投、小手返 でとりあえず7種類
これを掛け合わせると、
 5×3×2×7=210
もう210種類 結構なバリエーションのような気がします。