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書籍のおススメ

今日はちょっと毛色を変えて書籍のおススメです。
ある人についての書籍なんですが。

知っている人しか知らない、ある意味かなりマイナー、でもとてもメジャーな人についての本です。
歴史上の人物で、まず中学校の日本史ではやらない。
高校の日本史では出てくるけれど、詳しくはやらない。
ドラマではまず主人公にならない。
でも、幕末の歴史はこの人なしではありえない。
そんな人です。
私の好きな人の一人です。
この人を好きな人はマイナーだと思いますが。

その人の名前は山岡鉄舟。
大政奉還の最大の功労者です。
文字通り質実剛健を地で生きた人です。

書籍として出ているものに
・山岡鉄舟 南條範夫 文春文庫
・山岡鉄舟 小島英煕 日本経済新聞社
・山岡鉄舟 大森曹玄 春秋社
がありますが、一番上が読み物としては簡単でおもしろいと思います。

宜しければ、是非どうぞ。

4月17日稽古日誌

年明けから静的な動きが中心の身体作りとなっていたので、少し方向を変えて動的な身体作りを重点において稽古しました。
まずは体の転換を併せて300回。

最初は自由に動ける状態から少しずつ負荷の多い状態にしてみました。
動き方が変わっても身体の使い方が変わらないように意識して稽古できるとよいと思います。
大人はどうしても「うまくやろう」という気持ちが強くなりすぎて、こじんまりとしてしまいます。
一人で回っているときはそれでも大丈夫なのですが、すこしずつ負荷を大きくしていくとやはりぶれてしまいます。
思い切って動きながら、身体の動きを直していくのは難しいと思いますが、頑張りましょう。

今日は少し技を多めに、という毎週の私の課題を意識してまずは一教の表。
その後、普段みんながどのような意識で、どんな技をやっているか知りたいこともあったので一つづつ技を出してもらいました。
なのですが、私が説明しなかったためいきなり失敗。多分。
最初にお願いした大人は大人な心配りで「一教の裏」をやってくれました。
すみません。m(_ _)m 他にやりたい技があっただろうに・・・
「裏」に入ることはどういうことか普段から意識して稽古しているなあ、と感心する技でした。
一応こちらも大人な配慮で子どもにやりすぎ注意をしたところ、さっそくヒヤリとする技をやった組が。
互いにきちんとできる子同士はある意味怖いです。受けがうまいので何か起こることもないのですが・・

次も大人にお願いしようと思ったのですが、パニックになるやも、と勝手に気を回し子どもに。
現在四方投げが大好きな子なので、やはり四方投げをやりました。 ( ̄ー ̄)
前でやってもらっても、ともかく裏の四方投げがうまい。
私が教えたのですが、油断も隙もありゃしない。気を引き締めないと、マズいぞと思ってしまいました。
でも表はまだまだでした。頑張れ!

次も子どもで今度は入り身投げをやるだろうと思っていたら、案の定。
君たち、単純すぎるよ~ 
で、こちらは大人とやるのに身長差が40cm。
体格差を埋めるために、回る・動く・崩す。見ていて爽快です。
もちろん、大人が受けてくれるのもあるのですが、楽しいです。さらに動きがスムーズになると文句なしかな、と思いました。

2つほど子どもの技(といっても子どもに技を出してもらっただけで、中身は子どもの技という代物ではなかったのですが)を見たので、もう安心だろうと思って、大人にバトンタッチ。
天地投げになりました。自分の悩みが一番よくでていて、それはそれでよかったと思います。
大人も子ども達もまだまだ悩むところが多い技なのか、一番思い切りが悪かったような気もします。

最後はいつも通り自由稽古でしたが、少し私のストレスが。
何とは言いませんが、次回の稽古で子ども達覚悟しておけよ。 ( ̄へ  ̄ 凸

今日は場所の関係もあり、大人と子ども一緒にやってもらいました。
大人が教えるだけ、にならないよう、教えなくても大丈夫そうな子どもと組んでもらいましたが、一教の裏、四方投げ、入り身投げ、天地投げ、それぞれの子どもの技についての感想・コメントが欲しいなぁと思います。

理合いが命

剛術には剛術の理論が、柔術には柔術の理論があると思うのですが、剛術はある程度身体を動かすだけでも満足感が得られやすいのに対して、柔術は「うまく」やれないと満足できない場合が多いような気がします。
適当に技をかけているだけでは、なんか嘘くさくなってしまいます。
そのため、どうしてもきちんとした技がかけられるように理合(理屈)の度合いが高くなってしまうように思います。

また、柔術を始める人には、体力と気合だけで稽古を乗り切るのはしんどい、という人も多いような気もします。
そんな人にすれば、やはり体力がそこまでなくても上達できる可能性のある柔術は、動いてなんぼではなく考えながらやってなんぼ、という方が面白いのではないか、と思います。

そんな理由で、少し体力のない人でもうまくなって柔術を楽しめるような稽古ができればな、といつも思っています。

くしゃみをすると・・・

花粉症の季節真っ盛りのせいかもしれませんが、よくくしゃみをしている人を見かけます。
私は花粉症ではないのですが(多分)、最近くしゃみをした時に知り合いに「Bless you」と言われ「おお~」と思いました。
英語圏文化の人々が周囲にいた際にはよくくしゃみすると「Bless you」と言われたのですが、最近では随分耳にしていなかったのでちょっと新鮮でした。
この「Bless you」または「God Bless you」はわりに定着した習慣らしく、くしゃみした瞬間に複数の人から言われることもあります。
そんなに深刻な意味ではないのですが、起源が諸説ある中でよく耳にするのは「くしゃみをした際に口に魔物など悪いものが入ってくるので、祝福の言葉でそれを守る」らしいです。
くしゃみした人に声をかけるというのはあまり日本では見かけない習慣ですよね。

日本ではくしゃみした際には、自分で「くさめ」などという習慣がありました。
これも諸説あるのですが、くしゃみをすると魂が抜け出てしまうとか、くしゃみが出るのは(風邪など)身体の中に病魔がいるなど、よくない状態にあるので呪詛の言葉を用いてそれを防ぐのです。
平たく言えば、自分の身体の中で悪さをしている魔物に

呪いの言葉を吐きかけるのです。その言葉が「くさめ」でそれが変化して行為自体が「くしゃみ」と言われるようになりました。
という訳で、時々くしゃみをしたあとに「こん畜生!」と言っているオヤジを見かけることもありますが、あれは日本文化的には下品なわけではなく正道なのです。思いっきり魔に対して呪っていますから。

それにしても、くしゃみについて和洋ともに魔物から言葉で身を守る習慣があるのは同じでも、それを他人が言うか自分が言うかは随分違っていると思います。
そのあたりに文化的な違いがあるのかもしれません。
いつか調べてみたいと思っています。

花粉症で苦しんでいる方は、是非呪詛してみてはいかがでしょうか。
稽古してもくしゃみは防げないからねぇ。

 

正中線2

身体の動きの中で正中線は常に意識されていなければならないと先に述べましたが、この意識は初動から残身まで一貫して持続され続けなければならないと思っています。
正中線に対する意識が持続されている限り、しかも動作の根底に位置している間は「相手を制する」ことも「自らの身を守る」こともできると考えます。
別の面からみれば、正中線についての意識を常に持ち続けることは、「意識と身体」の主従(あるいは上下)関係において意識の優位が確保されていることが具現されている一証明であると思うのです。
しかしある時この意識が途絶えた瞬間に、「意識」は「身体の動き」の背面に下がり、筋肉を主体とする身体の動きが動作を支配することになります。
一旦動作に対する支配権が意識から身体(筋肉)に移ると、よほどの熟練者でない限り、再び切り替えることは極めて至難の業だと考えます。
少なくとも私のように未熟な者には、一旦離れてしまった意識の優位性を、同一動作中に再び取り戻すことはできません。
そのためにも、普段の稽古において正中線への意識を徹底することはとても重要だと思います。

4月13日稽古日誌

今日も仕事で遅刻してしまいました。m(_ _)m
今日の稽古内容は技を中心にして見ようとおもい、入り身投げと四方投げ。
ほかにも4つほどやる予定だったのですが、まったく予定通り進まず

後半は子どもたちに小さな演武をしてもらいました。
久しぶりの演武とあって、みんな真剣に技を考えていたようです。
でも、稽古ももっとしなさい()。
それぞれのレベルにあった「程よい」演武でした。
近日一部アップします。

来週の土曜日の稽古は四股を少なめにします、と宣言します。
転換は減らしません

厳しい稽古しかできません。

いよいよ本格的に学校も始まりました。
鬼の?、いや悪魔の? 副館長代理補佐に子どもの勧誘文をホームページに載せて下さい、と命じられたのでもう一度勧誘文です。

名古屋至誠館はきびしい稽古しかできません。
ただし、上達はします。きちんとします。
子どもをしっかりと「見守り」ます。
友達もできます。みんな仲良しです。
のんびりまったりやりたい子には向いていませんのでご了承ください。
無茶はさせませんが、甘やかしません。
そんな道場を探している人だけ来てください。

道場生の目標はみんな同じ「上手くなること」

そんな道場です。

うーん、副館長代理補佐に叱られそうだ・・・

4月10日稽古日誌

今日の稽古内容は
・準備体操
・四股200回
・体転換(大人は剣)
・一教
・四方投
・天地投
・二教
・相撲(子ども)
でした。子どもは10名ほどで結構いい人数なのですが、大人は4名と少しさみしいのでもう少し稽古に参加してくれる人がいると嬉しいですね。
最初は見よう見まねで踏んでいた四股も随分さまになってきました。私の要求はきついと思うのですが、頑張ってやってくれるのでうれしくなります。
稽古を始めてまもなく4か月。ここまでみっちりやってきた基礎が少しづつ子どもたちの身体に沁み込んできているのを感じます。
よいしょしたいのはやまやまですが、大人の身体に沁みこむにはもう少しかかりそうです。頑張ってください。
ほとんどの子どもは自分の長所と短所を身体と頭でも理解してくれるようになりました。もう少しで「自分で勝手に稽古できる」ようになるのでは、と期待しています。
体幹をしっかり意識して欲しいので、技が基本的な限定されたものばかりになってしまっているのですが、それはそれなりの効果も出てきているような気はします。
もう少し我慢して頑張りましょう。我慢してくださいね、子ども達。
あと、本当は褒めることではないのですが褒めてしまうと、途中で拗ねて稽古を中座しそうになった子が、叱られた(別に慰めていません)のに自分を奮い起こしてもう一度稽古に戻っていったことは、よく頑張ったと褒めてあげたいです。
(でも次は途中でくじけそうにならないようにね。)
最後は、子ども達の体幹の使い方を確認して修正するために相撲をやりました。うーん、しっかりしてきました。満足です。
まだまだ、へっぽこもいますが(ニヤリ)。

今日は大人もしっかりいたので、子どもをメインに見ようとほとんど子どもにつきっきりでした。おかげで、漏らすことなく子どもを見ることができました。放っておかれた大人の皆さんに感謝?かな。
子ども達は緊張しっぱなしだったかもしれませんが。
大人はしっかりと考えて稽古しているのですが、少し考えすぎになって身体が止まってしまうところもあります。
毎回の稽古で最低限これくらいは動く、というラインを設定しておくとよいのかもしれません。
横目で見ていたので、見間違えているかもしれませんが、大人の人も少しずつ自分の身体への「きっかけ」は見つけつつあるように思いました。
これだ、というところを見つけると自分一人でも稽古ができるので、早くそうなりたいですね。
折角なので、家で合気道のことを考えるときに、この4か月やって来たこととその中で自分が気が付いたことを反芻してみて下さい。
ヒントが見つかるかもしれません。

土曜日は大人の稽古も見られる、といいなあ。
土曜日も頑張りましょう!

ちょっとへこんでいるので

とりとめがない話でしかも抽象的なので、最初に謝っておきます。すみません。
とても悲しいことがあり、ブルーになっています。
大人ならわかっていることですが、世の中なかなかうまくは回りません。
自分にとって大切な人が違う道を歩んでゆく。
しかも、その道がおそらく自分と二度と交わることはない。
できることなら、それぞれが自分の道を歩みながらも、時に交歓したい。
そんな未来が閉ざされたと感じることがありました。
それが人生というものなのかもしれません。
だから、センチメンタルな気持ちは捨てて前を見てまっすぐ進んで行かなければならないのかもしれません。
でも、私はそこまで強くもなく、自分に自信もありません。
誰かに支えてもらわなければ、この先やって行けないと思っています。
自分にとって本当に大切なものだけを考えるべき時期が来ているのかもしれません。
もっと強くなりたい。
過去の半身を捨てて新しい未来に向かっていける挫けない心が欲しい。
こんな私でも一緒に歩んでくれる、「しようがないな」と言って支えてくれる仲間がいる。
何よりもそれが心の救いとなっています。
過去を振り切り前に進むにはまだまだ悩むことが多いと思います。
私と歩みをともにして下さる方々へ。
どうぞ、いつまでも一緒に歩んで下さい。
一緒に悩んでください。
私にはそれしかできませんが、よろしくお願いします。

正中線1

正中線については、何度も書きそうなのでとりあえず番号を振っておきます。
正中線を意識して動くことはとても大切、というよりこれなくしてはないと考えています。
身体の中心線前方に文字通り「」を意識してこの線上に力の収束や固定、吸収といったさまざまな動きを集約することが必要だ、と思います。
正中線への意識は力の使い方の意識とは別軸(身体の軸ではなく座標平面における軸)です。
力に関する意識は多様だと思っているのですが、正中線に関する意識は一通だと考えます。
ただし、力の使い方と組み合わせることで、実際の身体の使い方は多様となるので、あくまで「根本的な意識は一つ」だが「身体の動かし方という面での正中線の意識の仕方はたくさんある」ということになると思います。

 

 

4月5日稽古日誌

今日は、夜個人稽古があると聞いたので、何とか時間を作って途中から飛び入り参加させてもらいました。
スポーツセンターについたら4人で稽古していたので(数の多さに)びっくり。
稽古好きが多いですね。

今日は「参加する立場」で稽古ができるので最初からうきうきでした。
如何せん途中からの参加となってしまったことが残念だったのですが、とても充実した稽古ができました。

みなさん、ありがとうございました!

今日は清明節

清明節という言葉を聞いたことがある人は多いですが、沖縄を除く日本にはあまりなじみがないですよね。
清明節というのは、中国で墓掃除などをして祖先の供養をする、日本のお盆にあたる日です。そのため、中国ではほとんどの人がこの時期に休みとなり民族大移動が起きるわけです。
また、この清明節にあたるのは毎年梅雨を迎える少し前で、二十四節季では春分の次にあたる四月五日ごろとなります。
今回はこの清明節についてのお話です。

清明節の風習ですが、中国の春秋時代の有名な晋の重耳(宮城谷 昌光署の「重耳」は私のおススメの一冊です)、晋文公に仕えた介子推の故事に由来します。
介子推は文公が国を追われて流浪の旅の最中に、飢えた君主のために自らの股の肉を削いで焼いて食べさせたと言われています。このように苦労して文公を晋の国王につけたのですが、文公が国王になった際に恩賞を与えられることを忘れてしまいました。
しかし、介子推は文句ひとつ言わず年老いた母親と綿山という山に隠居しました。彼は恩賞や出世のために君主に尽くしたわけではなかったのです。

介子推に恩賞を与え忘れたことを家臣から指摘された文公はあわてて介子推に使いを送りましたが、介子推はこれに応えませんでした。そこで文公は王自らが綿山に出向き、介子推を呼びましたがやはり出ては来ません。そこで、文公は介子推を山から出すために山に火をつけさせました。火が消えても介子推は現れなかったため、探してみると山中で介子推母子は焼け死んでいました。彼の死体の横には「割肉奉君尽丹心,但愿主公常清明。柳下作鬼终不见,强似伴君作谏臣。倘若主公心有我,忆我之时常自省。臣在九泉心无愧,勤政清明复清明」と文公の政治がいつまでも「清明」であることを願った誌が刻まれていたそうです。

介子推を死なせたことを後悔した文公は自らの過ちを世間に知らしめるために「綿山」を「介山」と改めました。そして、人々は介子推の(欲のない)を尊敬し、毎年その日には一切の火を使うことを禁止して冷たい食べ物だけを食べるようにしました。それが「寒食節」のはじまりです。この「寒食節」の日に人々は介子推の魂を弔っていたのですが、そのうち介子推だけでなく祖先の霊も弔うようになり、「寒食節」=祖先の霊を弔う日 となりました。
この「寒食節」は二十四節季の「清明節」の直前であったため、「寒食節」=祖先の霊を弔う日=「清明節」と一緒になってしまいました。

今では、「寒食節」の風習が廃れてしまったため、祖先の霊を弔う日=「清明節」と考えられるようになりました。
日本ではこの少し前に春のお彼岸でお墓参りする風習がありますが、日本でも中国でもこの時期にお墓参りする習慣があるのは寒さが落ち着いて暖かくなるからなのかもしれません。
「清明節」、少し悲しい故事ですがいいお話だと思っています。

新年度がはじまりました

仕事柄4月1日から新年度がはじまるのですが、なかなか「気持ちを一新して」ということができない性格で困っています。

通勤時にフレッシュマン(この言葉は死語?)が真新しいスーツに身を包んで会社に向かうのを見ると、何だかプレッシャーを感じてしまいます。新社会人、新入学のみなさん、新しいスタート頑張ってください。中年のオヤジもフレッシュな気持ちで頑張りたいです。

だから誰かフレッシュなネタを分けて下さいな。

 

技の稽古の機会

名古屋至誠館はまだ小さな道場で人数も少ないため、特に大人はいろいろなタイプの人と稽古する機会がなかなかもてないのが、申し訳なくもあり課題ともいえます。
何十人も大人が稽古している道場や、内外でたくさんの指導員や指導者がいる道場では、毎回の稽古でさまざまなタイプの人と稽古できますし、多種多様な技や考え方を体験することができてうらやましいと思います。
そうした恵まれた環境で稽古できない至誠館の門人の皆さんには、是非機会を見つけて勉強のために外の講習会等に出かけていただきたと思っています。

また、講習会の情報をお持ちの方は是非教えてください。m(_ _)m

子どもの審査

子どもの様子を見ていると、もちろん稽古の量だけ上達はしているのですが、正直昇級に値するかどうかはかなり疑問です。
こどもについては、子どものやる気をだすために毎回昇級させる、という考え方もあります。これはこれで正しい考え方だと思っています。
ただ名古屋至誠館では、
 ・外に出ても恥ずかしくない力をつけてほしい
 ・「子どもの習い事」としてではなく、一生を通じて合気道と取り組んで欲しい
 ・合気道は本当に真剣に取り組む習い事である
という理念から、簡単に昇級はさせないことにしています。
繰り返しますが、この点は本当に考え方がいろいろあると思いますし、どれが正しいということはないのですが、名古屋至誠館の子ども達にはどんどん外に出て稽古をしてほしいと思っています。自分の道場で一定の級をもっていたとしてもそれが外に出たら、自分より下の級の子に気後れするような稽古しかできなければ悲しい思いをするでしょう。以前も述べましたが子どもの観察力は鋭く自分の実力を十分に客観的に判断することはできると確信しています。だからこそ、あまり道場内で子どもに「優しい」評価はしたくないと思っています。
また、名古屋至誠館では大人と同じレベルを子どもに求めたいと考えます。もちろん、体格的・体力的な点は考えなければいけませんが、私たちは子どもたちに合気道を子どもの頃だけやるのではなく、そのまま大人になるまで続けてもらいたいと思っています。だから級の考え方も大人に準じて厳しく評価したいと考えています。
最後に子どもとしては、頑張った分の評価はしてほしいのは当然でしょう。しかし、頑張ればすべて認められるということは社会ではなかなかありません。子どもに対して敬意を払い、合気道に対して真剣に取り組んでほしいと思うので「合気道ではそう簡単に昇級はできない」と納得した上で稽古を続けてほしいと考えます。
子ども達が自信を身に着けて昇級できる。そんな道場が私たちの目指す道場です。

新しい仲間をまっています

以前にも書いたと思うのですが、新学期なので改めて。
子どもに合気道を習わせる目的はたくさんあると思います。
強くなって欲しい。
礼儀正しくさせたい。
厳しく育てていきたい。
身体が弱いから鍛えたい。
学校以外で友達をつくりたい。
どんな理由で合気道を初めてもいいと思っています。
ただ、最初に気をつけなければならないことは、親や子どもが合気道を始める理由にあった道場を選ぶことです。道場を変えることはなかなか難しいので、はじめる前にしっかりと見学や体験をして、目的にあった道場を選ぶことが大切です。特に親が稽古を見学すればその道場の雰囲気がよくわかるはずです。
最近ではインターネットなどでも近くの道場を探すことができます。
できるだけたくさんの道場に見学、体験にいって、目的にあった道場を見つけることが何よりも重要です。
厳しい稽古がしたい人は是非名古屋至誠館にどうぞ。

いよいよ新学期

まもなく3月も終わり新しい学年の始まりです。
学年が変わると新しい生活が始まり、これまでやっていた習い事ができなくなってしまう人も多いと思います。
大人からみると、勉強や部活で合気道をやめてしまう子がいることはとても寂しいです。
でも、子ども自身にとってはたった一つの身体でかけがえのない一年を過ごして行くのですから、そういう場合にはぐっと我慢してエールを送りたいと思っています。
どんなことでも必ずその子にとって糧になるはずです。頑張ってください。
でも、またいつか道場に戻って来てね、とだけは言わせてもらうようにしています。

 

反復稽古と惰性

もうすっかり春ですね。
基本の型稽古や反復稽古を繰り返すことが初心者にとって上達の早道であるとは、以前書きました。また一方で反復による惰性ついても述べました。
反復稽古の目的は身体に合気道的な動きの習慣を染み込ませるためのものであり、そうである以上稽古の目的は「癖をつけること」であり、その動きに一定の癖や間違いがあるリスクは織込み済みであると考えます。
問題は一定の動きができるようになった後でしょう。上記の目的がそれなりに達成されてからも同じような稽古を繰り返しているだけだと、惰性と癖の部分が助長されて後から修正することが困難になります。
この時点からは自分の身体との対話が始まると考えています。人間の身体には反射的な学習能力、言い換えれば慣れる力があります。この力は初めて物事を習う際にはそれまでやったことがないことを身につけるのにとても役に立つのですが、一定の閾値を超えると強い癖になるのでず。例えば家具の配置を変えてもつい、以前の場所を探してしまう、などです。
ある程度の形を覚えた辺りで、癖にならないように修正を入れながら稽古する。それが理想だと思っています。癖がついた後では修正は難しく、場合によっては修正というよりは再構築になりかねません。これはとても大変です。
とはいえ、実際にはそのタイミングを自分自身で判断することはまず不可能だと思います。そこがまた武道の難しいところではないかと思います。
いつものオチになってしまいますが、いい稽古をするのは難しいと思います。

 

 

 

3月27日稽古日誌

このところ、身体づくりに重点をおいてきたので、少し技をやってみることにしました。
稽古を見ていての感想として、最近のテーマである軸と正中線の意識のでき具合に個人差があることと、同じ人でも場面によってできていたりできなかったりすること、を感じました。
特に正中線の意識はどうしても身体を動かしたり、相手を投げようとした瞬間に力が入り、接触点からズレが生じてしまいます。正中線の維持は力や筋肉の動きではなく意識によって行うものなので、自分ではやれているつもりでも意識が別の方向にむいた瞬間に正中線からはずれて、あとは動かないか力任せに・・・。
なかなか口では説明しにくく、見ていて感覚的にズレが生じたポイントの指摘とその理由を体を動しながら話さないと説明できません。なんとか具体的に説明しようと思うのですが、いまいちになることも多かったかも。
こうした稽古ではできる限り直接見て感覚的に思ったことを伝えられればと思っています。

子どもと自分に反省

今日の子どもの稽古について、いくつか不満が。
一つ目は四股と転換が半分惰性になっていたこと。みんなきちんとやっていることは問題ないのですが、手が下がっていたり、勢いだけで転換していたりと、自分のやるべき「課題」への意識がうやむやになっていたところがありました。
これは、大人が、ではなく周囲が気が付いたら指摘してあげるべきだと思います。少なくとも名古屋至誠館では、お互いに相手のために気が付いたことを指摘しあうことができるので、仮に自分ができていないことであっても相手のために教えてあげるべきだと思います。
後半の自主稽古でも、「自分が上達するための稽古」というよりは「自分のやりたい稽古」になっていた気がします。
特に自主稽古は、それぞれが自分の今一番やるべき稽古をするために取っている時間です。
どうやったら自分がうまくなれるかを考えることも稽古の一つだと思っています。
このブログを子どもが読んでいるかわかりませんが、読んでいたら次はしっかりやってください。
もちろん、大人もです。