今日は清明節

清明節という言葉を聞いたことがある人は多いですが、沖縄を除く日本にはあまりなじみがないですよね。
清明節というのは、中国で墓掃除などをして祖先の供養をする、日本のお盆にあたる日です。そのため、中国ではほとんどの人がこの時期に休みとなり民族大移動が起きるわけです。
また、この清明節にあたるのは毎年梅雨を迎える少し前で、二十四節季では春分の次にあたる四月五日ごろとなります。
今回はこの清明節についてのお話です。

清明節の風習ですが、中国の春秋時代の有名な晋の重耳(宮城谷 昌光署の「重耳」は私のおススメの一冊です)、晋文公に仕えた介子推の故事に由来します。
介子推は文公が国を追われて流浪の旅の最中に、飢えた君主のために自らの股の肉を削いで焼いて食べさせたと言われています。このように苦労して文公を晋の国王につけたのですが、文公が国王になった際に恩賞を与えられることを忘れてしまいました。
しかし、介子推は文句ひとつ言わず年老いた母親と綿山という山に隠居しました。彼は恩賞や出世のために君主に尽くしたわけではなかったのです。

介子推に恩賞を与え忘れたことを家臣から指摘された文公はあわてて介子推に使いを送りましたが、介子推はこれに応えませんでした。そこで文公は王自らが綿山に出向き、介子推を呼びましたがやはり出ては来ません。そこで、文公は介子推を山から出すために山に火をつけさせました。火が消えても介子推は現れなかったため、探してみると山中で介子推母子は焼け死んでいました。彼の死体の横には「割肉奉君尽丹心,但愿主公常清明。柳下作鬼终不见,强似伴君作谏臣。倘若主公心有我,忆我之时常自省。臣在九泉心无愧,勤政清明复清明」と文公の政治がいつまでも「清明」であることを願った誌が刻まれていたそうです。

介子推を死なせたことを後悔した文公は自らの過ちを世間に知らしめるために「綿山」を「介山」と改めました。そして、人々は介子推の(欲のない)を尊敬し、毎年その日には一切の火を使うことを禁止して冷たい食べ物だけを食べるようにしました。それが「寒食節」のはじまりです。この「寒食節」の日に人々は介子推の魂を弔っていたのですが、そのうち介子推だけでなく祖先の霊も弔うようになり、「寒食節」=祖先の霊を弔う日 となりました。
この「寒食節」は二十四節季の「清明節」の直前であったため、「寒食節」=祖先の霊を弔う日=「清明節」と一緒になってしまいました。

今では、「寒食節」の風習が廃れてしまったため、祖先の霊を弔う日=「清明節」と考えられるようになりました。
日本ではこの少し前に春のお彼岸でお墓参りする風習がありますが、日本でも中国でもこの時期にお墓参りする習慣があるのは寒さが落ち着いて暖かくなるからなのかもしれません。
「清明節」、少し悲しい故事ですがいいお話だと思っています。

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