今日は「正中線 」と手の位置にこだわった稽古をしてみました。
勢いでやっているとどうしても意識が薄くなってしまうものなので、今日はゆっくり目に稽古をしてみました。
マニアックな稽古が続いているので、技の数が少なくなってすみません。
悶々とすることは増えるかもしれませんが。
先週に続いて今日も大人がたくさん(うちの道場的には・・・)参加してくれて稽古が充実しました。
ありがとうございます。また参加してください。
Todays main menu is “Keep Seichusen”.
The purpose of practice is keeping the hands just on the center of ones body.
Usually we can’t pay attention it, so I made it main.
Today, some other Dojo’s members join our practice.
It is very good for us to practice with various people.
Thanks. And please join next time.
「子どもだまし」という言葉があります。子どもでないと騙すことができないくらい稚拙・レベルが低いことやもの、という意味ですが、合気道を子どもに教えていて思うことは「子どもだまし」なものでは子どもは騙せない、ということです。
確かに合気道を始めて間もない子どもは、簡単な技をやらせてそれができたことを褒めてやるととても喜びます。しかし、ある程度技術が向上すると大人とは比べ物にならないくらい「もっとうまくなりたい」というこだわりが強くなってきます。
そんなときに「子どもだからこの程度」という気持ちで稽古をさせたり、あしらったりすると子どもは途端にやる気をなくしまてしまいます。きっと「子どもだまし」なことなんてやりたくないのでしょう。だから子どもの稽古する際にはいつも緊張します。子どもだましなことをしないようにしながらも無茶な稽古にならないように、常に可能な限り細心の注意を払って子どもの稽古をするようにしています。そんなわけで子どもの稽古をするのは疲れます。大人の稽古の方がはるかに気楽です。
力を抜くことは色々有効だと思いますが、今回触れたいのは「無意識に入る力を意識的に入れない 」ということです。人間の身体は転ばないよう無意識にバランスを取る機能を持っています。
この機能は「転ばず立つ 」という目的にはこの上なく便利なのですが、同時に身体の動き、特に動く「速さ 」を制限します。
稽古によって無意識に入る小さな力を消極的に制限できるようになれば、さらに人間の身体機能は活性化されると考えます。
今日は3つ程技をやる予定でしたが、結局1つになってしまいました。すみませんでした。
稽古の際にも説明しましたが、人間の身体は複雑な動作を自然にできる「超精密な」構造をしています。そういう身体を自分の意志通りに動かしたり動かさなかったりするのは、相当の鍛錬が必要だと思います。特に「動かさない」のは難しことが分かったと思います。
気長に稽古しましょう。
いつも思うことですが、合気道は性質として精神的なものが重視されやすい傾向があるように感じます。
柔術といものがなかなか難しいためか、特に一定の基本の形をそれなりにこなせるようになった人が「次に何を目的にしたらよいか」で悩むことが多いような気がします。
そういう時期にはつい、内向的な考え方をしてしまい、「合気道はこうあるべきだ」「稽古はこうあるべきだ」という精神論を重視してしまいがちな傾向があるように思います。
精神論自身は別に何も問題はないと思うのですが、身体を動かす稽古と精神論のバランスが極端になると(特に身体を動かす稽古で行き詰っていたりすると)稽古を続けることが負担になったり苦痛になったりすることもあるのではないかと思います。
悲しいのは、合気道が好きで一生懸命やっている人が難しく考えて稽古ができなくなってしまうことです。
あまり深く考えないで、ともかく身体を動かせばよいのではないでしょうか。
武道が子どもにどういう点で有益なのか、という質問をよくされます。
私は武道の「型 」が子どもにとって非常に有意義だと思っています。合気道においては、挨拶から始まり、型稽古まで稽古全体を通して「型」にはまっている部分がたくさんあります。
昨今の教育方針では個性を重視して、お仕着せのような「型にはめる 」ことには否定的に見る人が多数派かもしれません。しかし考えてみれば、子どもは何も教え込まれていない・躾けられていない状態においては、まったく無秩序に行動します。例えば、おやつがおいしいからご飯が食べられなくなるくらいおやつばかり食べてしまう、というように「食事の前に食べ過ぎてはいけない」というルール(すなわち型)が与えらえれていなければその時の気分で行動してしまいます。
もちろん個性はとても大切です。しかし、自分の個性が一体どういうものなのか、考える基準となるものが必要であり、それが定型的な「型」であると思います。だから、子どもに対して「型」を教える場面では、きっちりと厳しいくらいに「型にはめ」こむ方が子どもの判断基準を作り上げるにあたっても有意義ではないかと思うのです。子どもに与える方がぐにゃぐにゃなものでは、判断基準もぐにゃぐにゃになることは間違いありません。そう考えると、しっかりした「型」を子どもに身に着けてもらうためにも武道はそれなりに厳しい方がよいのではないか、と思っています。
正しいかどうか全く自信は(というより根拠は)ないのですが、自分としては意識と身体では意識が主で身体が従だと考えています。「自由自在」という言葉がありますが、武道においてこの言葉は「自分の思った通りに身体を動かすことができる」という意味だと思います。こういう言い方をすると、咄嗟に意識することなく身体が動くことが大切ではないのか、と言われそうなのですがそれも全くもって正しいと思います。
つまり、意識下における動作(あるいは能動的所作)においては、自分の意識した通りに身体を動かせるようにすることを目標として、無意識下のおける動作(あるいは受動的所作)においては身体の発動を制約する意識を働かないように訓練することにより(例えば急な攻撃を受けても驚いて身構えないように訓練する)消極的な意味において身体を意識の従としようとしているのではないか、と思っています。
もちろん、稽古は身体を動かすものなのでここでいう従が稽古の主役になるという複雑な関係が生じるわけですが、その際にも以上の主従を十分に考えながら稽古できると「自由自在」に技が出せるようになるのではないか、と考えています。
子どもに武道をやらせることの是非は人それぞれですが、私は大賛成です(自分もやっているのですから当たり前ですが)。
最近では子どもの心の弱さが社会的な問題としてよく取り上げられています。子どもの心が挫けやすいのは当たり前のことなので、それを社会や大人が守ってやらなければならないのは間違いありません。
問題は「守り方 」だと思います。子どもの間だけ守るのであれば、子どもの周りにある「少しでも危なそうなもの」をどんどん取り除いていわゆる箱入り息子や箱入り娘にしてしまえばよいのですが、いずれ大人になった時には結局苦労するでしょう。大人になってからかかるおたふく風邪が大変なのと同じで免疫がないことは本当に子どもにとってよいことかどうかわかりません 。
だったら、武道の道場で厳しくしつけられていた方が、心身ともに強くなるのではないかと思います。その際、やはり少々厳しいのでは、と思う位の方が良いとも考えます。子どもは非常に敏感で聡明です。相手が微妙なバランスを気にしながらやっていることにはすぐに気が付きます。そして調子に・・・・ 時には理不尽だなと思うことがあるくらいの方が、却って子どもにとっては納得しやすいのではないかといつも考えています。子どもたちの賢さと柔軟さを信頼しながら、厳しい「プチ社会 」を体験できる場所。それが武道の道場だと私は思っています。
2月26日から3月1日まで、毎年参加させている大学の合気道部の合宿に参加させていただきました。
普段ほとんど自分の道場で稽古ばかりしていると、どうしても頭が固くなりがちです。他の道場に出稽古には行くのですが、やはり外で稽古することは自分にとって大切な機会だと思っています。
特に学生の皆さんは非常に稽古熱心で、向上心に溢れるので、私にとっては単に技術の向上だけでなく合気道に向き合う姿勢そのものも学び反省することができ、本当にありがたい機会だと思っています。あと、チャレンジャーが多いことも大好きです。
また、参加させていただいている大学の皆さんは現役始めOBの皆さんも大変暖かく迎え入れて下さり、この点でも非常に感謝しています。
なんのために合気道をやるのか? という問いは、「まだ合気道を始めていない人 」と「ある程度合気道をやった(中級の入り口)くらいの人 」からよく聞きます。
このうち後者の中でよく見かける(というか感じるのですが)のは、熱心に稽古して一定のところまで上達した結果、却ってその先に何をやったらよいか分からなくなってしまっている人ではないかと思っています。しかし、実はそういう人には「自分は結構やってそれなりのものを身に着けている」という慢心もあるような気がします。
私もそれなりに長い間稽古を続けていますが、未だに自分の技術に自分自身で満足できたことはありません。自分の現状がまだ発展途上、あるいは未熟であるという認識があるのであれば、必ずどこかにさらなる上達のための途や方法があるはずで、その方法探しが合気道をやる目的すなわち「上達したい」に続くはずだと思います。
何やら抽象的で小難しいことを書きましたが、結局のところ合気道を稽古する目的は何より「うまくなるため 」ではないでしょうか。
昨日の稽古では、稽古担当者が工夫した稽古をしてくれました。子どもにとっては目先が変わるものでもあり、いつもにまして集中力が上がってくれればと願っています。
大人にとってみれば、考える題材は多い方が稽古に個性が発揮できてよいと思っています 。ある一つのことを身につけたいと思っても、大人はみんな人生経験が豊かなためよくも悪くも時間がかかってしまいます。一つの稽古法ではなかなか意識(モチベーション)が持続しない場合に何らかの方法で「考える 」ことは現在の稽古を見直すいいきっかけになると思います。
稽古を担当する側も、稽古に参加する側も「考える」ことでよい稽古を作り上げられればよいな、と思っています。
稽古をしていると子どもの成長力や適応能力に驚かされることがあります。その理由が成長期だからか、身体の調整能力が高いからかはわかりませんが、ともかく大人であれば何か月もかかることをあっという間に「コツ 」を掴んで身につけてしまいます。
だから、子どもと稽古するときはいわゆる「子ども扱い 」はしないことにしています。とは言っても精神的にはやはり子どもなので、どこまで大人と同等の扱いをして、どこまで子どもとして扱うかは難しいところで、いつも悩んでいます。
そんな風にいつも不安を持ちながら子どもと稽古していますが、「子どもの成長力に上限はないこと」「成長能力が高いからこそより真剣に物事に打ち込ませる」については、間違いないと信じて稽古をしています。
身体の動かし方はさまざまです。考え方や表現の仕方はさまざまなので、ここでは私見を述べることになりますが、私は柔術の場合大きな形として「身体全体を一つに固めて動く方法 」と「軸を中心に動く方法 」とがあると思います。前者 は身体の動きの基本的な流れを理解するのに取り組みやすい方法だと思います。例えば相手を掴む手に力を入れれば、必然的に体幹まで筋肉が収縮して全体が一つになります。筋肉が収縮している状態で技をかければ自分と相手が一体になっている感覚を得られるので、基本的な身体の動かし方の理解には向いていると思います。一方で、体を硬直させるので、動きに制限が加わり自由度は相当に下がるため、相手によっては技が全くかからなくなってしまうこともあります。後者 の軸を中心に動く方法は、動きの半径が軸となるので、軸の意識が研ぎ澄まされていればかなり窮屈な状態でも自由に動くことができます。ただ、ここでいう軸は意識の中で作り上げるのものであり、筋肉等のように実存するものではないため、軸の感覚を習得あるいは意識できるようになるまでかなり時間がかかることが短所でしょう。
人間が何気なく行っている「立つ」すなわち二足歩行はとても高度なバランス運動です。転ばないように立つために必要なバランスをとるための中心を武道では「重心」と呼んでいると思います。この重心は静止している状態での身体感覚の基本で、重心を維持したまま身体を動かそうとした場合、今度はバランスを崩さないようにしながら動く必要が生じます。バランスを維持しながら身体を動かすために意識しなければならないものが「軸」なのではないでしょうか。
身体の使い方はとても難しいと思います。合気道では「力みを取る 」ということがよく言われますが、この言葉には大きく分けて「きれいな形で無駄なく力を出す」という意味と「目に見えない力の流れを自由自在に操る」という意味が含まれていると考えています。
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