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離見の見1

稽古に心得べきことあまたあるに、離見の見こそそうなき肝要なれ。
為すに於いてすると見る己に一することこれなのめなり。
これを我見とぞ言ふ。しかれど自ら見るを以て自ら為すのひがえ知らざることことわりなり。
ゆえに離見の見これ寛容なるべし。此我を以て被我とするを離見の見と言ふ。
己を見るに己にあらざるによるこそ、己を正しきに導くゆゑんなれ。
この一事を以て学ぶのはじめとすべし。


稽古をするに当たって自分の技を客観的に評価することは非常に重要です。
身体の感覚は言語化が困難な感覚のため、どうしても主観的に捉えがちです。
しかし自分の技を主観的に捉えているうちは、微妙な感覚のずれを看過してしまいがちになります。
このずれを修正するためには、ずれを把握して修正してくれる先達が不可欠となります。
個々の身体感覚はそれぞれ異なるため、画一的な稽古を強いることは却って上達を阻害します。
従って、稽古そのものは個々の感覚に沿ったものを行うべきですが、それを修正する必要があります。
それには、ずれを指摘し修正する側に非常に繊細な感覚が必要であると考えます。
特に言語化しにくい身体感覚を指摘するのですから、言葉も巧みでないと理解しにくいでしょうし、言葉以上に身体を使って細かく説明することが不可欠となります。
ましてや、それほど技術に差がない場合は、ずれを指摘し修正することはほぼ不可能だと思います。
とはいえ、なかなかそんな先達に巡り合うことはできないので、せめて自分の技を客観的に評価する努力が何よりも大切になると考えます。
その際、自分を客観的に評価する視点として自分を適切に評価してくれる人を鏡として普段から稽古するとよいでしょう。
その場合も、自分勝手に視点となるべきもう一人の自分を歪めないように常に意識することが必要となります。
そうでなければ却って自分の技を客観的に歪めてしまい、一層悲劇的な結果になるでしょう。
それほど身体感覚を磨くことは困難だと考えます。

稽古の継続4

ようやくまとめです。

結論として、大学を卒業するころの学生は
 ・何を目標にして
 ・どれだけ稽古をして
 ・何を基準に判断すれば
よいかわからなくなってしまうことが多いのだと考えます。これはきっと大学生に固有な問題ではなく、一般の道場で稽古される方にも一定の時期が来れば訪れる問題なのでしょう。

前にいた道場でも、二段をとった頃から自分の技や稽古に自信が持てずに苦悩する人は何人も見ました。
あ、こんな書き方をすると偉そうに見えるので言い訳しておきますが、私自身は今でも同じ悩みを抱え続けています。
悶々とする合気道人生です。

で、上記の悩みは誰にでも訪れるとして、その上で大学生の場合それを解消・緩和してくれる先輩に恵まれるかどうかが重要な要素になっていると思います。
中にはそうした先輩なしにこのトンネルと潜り抜ける(それを讃えて武道家と呼んでもよいかもしれません)人もいます。
でも、その苦労は並大抵のものではありません。加えて、自力で抜け出た人は他人の悩みが必ずしもわかるわけでもなく、場合によっては自力でトンネルを抜けたために苦しむ人の気持ちはわからない場合もあるかもしれません。まあ、それは別の話なので置いておいて、悩んでいるときに救いの手がさしのべられないことは追い打ちになることでしょう。

悩みは尽きない、それを緩和してくれる人もいない、となるとだんだん積極的に稽古をする気持ちはなくなってきがちです。
そんな状態で苦しんでいるよりも目先を変えて新しいこと(例えばテニスやゴルフなど)に挑戦した方が目標が明確で楽しい、と感じるかもしれません。
また、稽古で汗を流してお酒を飲むことに楽しみを見出すかもしれません。
ただ、どちらにしても「稽古」という本筋に楽しみがおけなくなってしまえば、あとは脱落するのは時間の問題です。

社会人になって仕事はじめ新しいことにチャレンジする楽しさを手に入れたり、稽古という苦悩の陰のない飲み会ができるようになれば、そちらの方が気楽で楽しいので次第に稽古から離れて行ってしまう。
それが、多くの大学生が社会人になって合気道から離れていく理由ではないかと思っています。
私自身も大学生と稽古を続けて20年以上になるので、そういう学生をたくさん見てきました。

結論としては、しようがないかなと思っています。
もちろん、ともに稽古をする仲間が減ることはこの上ない寂しさがあります。
でも、悩んで苦しんでいるよりはそれから解放された方が本人にはよいに違いありません。
それでも、同じ部活で汗を流した縁は消えないわけですから、同窓会のような機会を持てることも大学の部活のかけがえのないつながりの一つだと思います。
苦しんでいるとき、私に言ってくれればよかったのに、と思うこともありますが、一旦長いトンネルに入ってしまうとなかなか力を貸すこともできません。
それも運命なのかもしれません。

そういう意味では、今一緒に悩みながら稽古をしてくれる道場の人達に未熟ながら力になれればと思うと同時に、どんなことでも言ってもらえれば一緒に悩むから、と言いたいです。
そして、何よりもそうした悩みを共有できる仲間のありがたさをかみしめつつ、今悩んでいる人達にもさらに次の人達の支えになってもらいたいと思っています。

と、これで一応終わりかな。

稽古の継続3

この話は大学生で稽古していた人が、社会人になると大半が稽古をやめてしまう理由を考える、というテーマです。
言い直さないと自分が本題を忘れてしまいそうだ。

で、続きですが、第一の問題点はレベルが上がるほど「目標が設定しにくい」ということにあります。それでも大学を卒業するくらいまでは「とどまることなく技がかけられる」などそれなりに目標は立てられるのですが、大体これくらいのキャリアになってくると「次に何を目標にしたらよいか」が見えにくくなります。
一定の動きや技ができるようになると、(上達意欲のある人は)次の目標が必要となります。その際、今できていることは当然目標にならないわけですから、今できていないさらなる高みを目指すことになります。
大学生のクラブの場合、卒業するころにはすでに最上級学年であり、自分に明確な目標を立ててくれる先輩は周囲にほとんどいません。そのため、自分の目標を自分で設定しなければならなくなります。
もちろん、究極の目的ははるか先にあるわけで、その目的のために日々の稽古を積み重ねればよいのだ、という正論は成り立ちます。ただ、ほとんどの人はそんな遠大な目標に従って稽古をすることはできません。
ある程度短期中期で意識できる目標を設定しなければやる気がなえてしまいます。
この「近くの具体的な目標を見失ってやる気がなくなっていく」が型稽古を主体とする柔術の持つ第一の問題点だと思います。

第二に上達に時間がかかる、ということも大きな問題点の一つだと思います。ただし、この問題点は第一の問題点と密接にかかわっているので切り離して考えることはできません。
仮に短期的な目標が設定できたとしても、どれだけ稽古をすればその目標に到達できるかわからなければ、稽古は苦痛になります。「継続は力なり」と簡単に言える人は才能にあふれた人で、今の自分がどれくらいの力を持っていてあとどれくらい稽古すれば次の目標を達成(あるいは近づくことが)できるか、は自分自身にはなかなかわかりません。そんなに強い心を持っている人はなかなかいません。
大学生の場合ここでも、近くで自分のことを客観的かつ(当事者の目線で)見守ってアドバイスしてくれる上級生等がいなければなかなか第二の問題点は解決しません。上級生がいても、その人の視点が悩んでいる当人の視点とずれたアドバイスをすれば、結局本人の悩みは解消されず稽古が苦痛になっていきます。
私の知っている人でも大学卒業後長きに渡ってきちんと稽古して、かつ上達している人はそうした先輩たちに恵まれている場合はほとんどです。

第一と第二の問題が合わさるとさらに悲劇的です。短期中期的な具体的目標があやふやにしか設定できない上に、その目標がどれくらいで達成しうるかという見通しすらたたない。これはもう、全く先の見えないトンネルをトボトボと歩いているようなものだと思います。大学四年生くらい(段位でいえば二段をとる前後位)にこのトンネルに入ってしまう人は多く、稽古しても自分がうまくなっているのかわからない(もちろんなっているのですが、自分が納得できなければ結局意欲に結びつかない)、今までできていた技もできなくなったような気がしてしまう、という気持ちになることが多々あるようです。
加えて、最上級生としての立場や段位などから受けるプレッシャーで「うまくならなければならないのにうまくなれない」という本当にかわいそうな心理になる場合もあります。
その先の話は次に送るとして、

第三の問題は試合などの「明確な基準」がないことです。本来柔術においては、基準は自己の内部にしっかりと作るべきなのでしょうが、これまでにも述べてきた通りよほど精神的に強い人でない限り何らかの依拠できる基準は欲しいものです。
仮にそれが正しい基準ではなくても試合の結果など具体的に明確な基準があれば、それをよすがに稽古を継続することがしやすくなります。これも上の問題と同じですが「うまくなっているよ」と言われるだけではやはり、抽象的すぎて納得はできないのが人情ではないかと思います。<また続く>

稽古の継続2

まず第一に柔術はその型が複雑であるものが多いという特徴があります。
柔術を始めたばかりの人は、何よりもまずその形を覚える必要があります。
合気道でいえば、一教や入身投げでどちらの足を動かすのか、手は右手が前か左手が前かといった超基本すら最初はできません。これを一生懸命覚えることが最初の目標となります。
どのレベルで一通り技ができるようになるかは道場によっても違うでしょうが、ここではすべて大学生を基準にして考えることにするので、一般の道場についてはそれを割り引いた形で考えていただければと思います。
大学生でいえば、大体半年くらい(初めての審査あたり)で「手足を間違えずに技をかけることができる」ようになるように思います。
一通り間違えずに技がかけられるようになると、今度の目標は「たどたどしくない程度に(一連の流れをもって)技をかけられるようになる」ことが目標となります。私はこれができるようになるのが初段になる頃だと思います(初段の審査の時に技を間違えたり、途中でわからなくなって止まってしまうという話もよく聞きます)。
言い方を変えれば、技を間違えられずにかけられるようになれば初段になれる、と言ってもよいのではないかと思います(繰り返しますがそれよりずっとレベルの高い審査を行う大学もあります)。
これが、柔術特有の第一の問題点に繋がると思います。

第二に柔術は上達に長い時間がかかることが一般的という特徴があります。
これは次の第三の点とも関わるのですが、柔術はその名のごとく「柔らかさ」が不可欠な要素となっています。例えるなら丸い作品を仕上げるような作業であるため精緻さが必要となります。その結果、一つの技術が上達するにもかなりの時間が必要となるわけですが、これが第二の問題点に繋がると思います。

第三にこれは合気道に特徴的なことですが、試合がないということも大きな特徴であると考えます。私自身は試合のないことが稽古を続ける者にとって福音であると考えます。試合によって優劣を一義的に決定することは、そうした優劣についていけない者にとっては継続に当たっての壁になります。その点、試合がないことは自分と向かい合って長期で稽古するにはよいと考えます。
ただ、一方で「基準」という点では反対に継続を妨げる要素に転じる可能性が高いと思います。
<くどいが続く>

稽古の継続1

大学を卒業して新社会人になった方々の初給料日も過ぎ、徐々に社会人らしくなってきているのではないかと思います。
と同時に、学生時代やっていた合気道ができなくなってしまう人も多くなることもまた悲しい事実です。
大学時代は週に3日から6日稽古をしていた人たちが合気道を辞めてしまう理由は何か。
おそらく、プロとして合気道をやっている先生方以外で大学生ほど熱心に稽古をしている人たちはいないと思います。
それゆえ、大学一年生で合気道を始めた人でも卒業時にはかなり上手くなっているのが一般的です。
大学1年生で合気道を始めた人は1年から2年で初段をとり、まじめに稽古を継続していれば卒業時には二段をとれるくらいの実力になるのが一般的です。
なのに、社会人になると合気道をやめてしまう。

「社会人になるとなかなか稽古する時間がとれなくなるから」

という答えをこれまでたくさん聞いてきました。
でも、実際就職後も稽古を継続している人はいますし、また大学4年間合気道をやってきた人は到底初心者とはいえないレベルですから、自分の余った時間で効率的に稽古をすることはできるはずです。
また、一時的に非常に忙しくて稽古をすることができない時期があっても、その時期が過ぎれば必ず稽古する時間は作れるはずで永続的に稽古する時間がないという人は非常に少ないと思います。

にも関わらず、ほとんどの人が学生時代にやっていた合気道を辞めてしまう。時間ができるようになっても稽古を再開しないのはなぜか。
そこには、柔術特有の問題があると思います。<続く>

今月のテーマ

これまで4か月「身体つくり」を中心にやってきました。
もちろん、身体つくりは何よりも基本なので、これからもしっかりとやっていくのですが、ある程度稽古のやり方もわかってきたと思うので、しばらくは皆さんの自主稽古に任せるとして(もちろん適時確認して稽古はしましょう)、今月は「小手先の技術」を中心に稽古してみましょう。
身体の使い方と合わせるととても効果的です。

かなり細かいこともやりますが、一つ一つ丁寧にやって、少しでも早く身につけましょう!
もちろん、部外秘です(笑)。

理合が命2

以前、合気道のような柔術は理合がとても大切だ、ということを書きました。
ただ、
「理屈が分かれば大丈夫」
「理屈通りやっていればできるようになる」
と思い込む勘違いをしてしまいがちだと思っています。(大学生なんかに多そうな気がします)

と書くとさらに勘違されそうなので、丁寧に言うと
・理屈を理解してそれにしたがって稽古を続ければ必ずできるようになる。
は正しいと思います。
しかし、この論理には「理屈を理解する」「それをゆがめずに稽古する」「さらに進歩を確認しながら確実に上達する」を欠くことなく継続することが大事です。
例えば「こうやればいいはずだ」と思っていた理合そのものが実は違っていたりすると、間違った稽古をしばらく続けることになりその分上達は遅れます。
これはよく初心者で本を読んで理論を理解しようとする人に多くみられる例です。やはり体術である以上、一定の稽古をつんだ人でなければその理合が正しいかどうかは判断できないと思います。 生兵法・・・というやつです。
また一旦正しい理合を学んでも、稽古を続けているうちにやり方を間違えたり、我流に走ってしまうこともよくあります。常に理合が正しいか、稽古法が正しいかを確認しながら稽古することが必要であると考えます。
加えて一つの技術を理解しても、それを延々と繰り返しているだけでは不足している場合もあります。それぞれの技術の段階に応じた稽古をやらなければ、不必要な足踏みをすることもあるかと思います。
どれ一つの条件をとってもかなり難しいものだといつも痛感しています。
先人は長い年月をかけてそれを身に着けてこられたのであり、道のりの長さを感じます。

言いかえれば「自分だけでも理屈通りやっていればできるようになるけれども、何年も、何十年もかかってしまう可能性も大きい」と思うのです。
合気道を始めて四半世紀以上経ちますが、未だに自分の稽古が間違っているのではないか、と日々びくびくしながら稽古しています。

武道の道のりが長いものであることは間違いありませんし、一朝一夕に上達するものでないことは論をまちません。
また、遠回りすることが時に大切な意味を持つことも重々理解しています。
それでも、少しでも早く上達していきたいというのが人情だと思います。
特に、若い人と稽古していると、彼らとの「持っている時間の猶予」の違いに焦りを感じることもよくあります。
少しでも遠く高く進むために、わがままかもしれませんがちょっとでも効率よく稽古したい。
私以上に、道場生で歳をとって(失礼な表現かもしれませんが)から始めた人にとっては切実な問題でしょう。

なかなか簡単にはできないことですが、日々意識をしながら稽古をしましょう。

5月4日稽古日誌

今日は連絡ミスで一つ稽古をし損ねてしまいました。
とてもやりたい相手とだったので、すごく残念です。
私が現れないので、先方が連絡をくれた時にはすでに時遅く仕事を入れてしまっていました。
またよろしくお願いします。

午後にスポーツセンターが個人利用できたので、剣を振りに一人で稽古をしに。
みなさん同じことを考えるようで、他にも個人利用者がいました。
その中に前の道場の仲間がいて、誘われたので一緒に稽古することに。
久しぶりに一緒に稽古できて楽しかったです。

私のスタイルが以前とは全く違っていたので、とまどった人もいたかもしれません。
この半年でずいぶん上達しているな、と思う方もいました。
目指す道は同じです。みなさん頑張って稽古して下さい。
うちの道場で稽古している人たちも頑張っているので安心して下さい、とも伝えました。
またどこかで一緒に稽古できる機会もあるでしょう。
お互いに切磋琢磨できるとよいですね。

5月3日稽古日誌

今日はスポーツセンターが個人利用の日だったので、稽古しに行きました。
いつもの金曜日らしく、板の間では剣術(一刀流だと思うのですが)をやっています。
この雰囲気が好きなんです。
今日は大人二人とばかにできない子ども二人と四人で稽古。
途中飛び入りもあったりして楽しかったです。

稽古の内容は
・横面打四方投その1
・横面打四方投その2
・横面打肘決投
・横面打呼吸投(肘決めっぽく)
・片手持四方投表
・片手持四方投裏
・片手持二教
・正面打入身投
・正面打一教
・両手持
本当はもっとたくさんの種類をやりたかったのですが、途中で詰まるところを直したりしたために時間が・・・
そのあと木剣を振りました。副館長代理補佐見習さんはずいぶんと腰が切れるようになりました。
あとは、それぞれの部位の動きをやわらかく固めないように連動(一体化)させて、腰を主導に動く「だけ」です。

なつかしい顔も見えて、とても楽しい時間でした。
自由稽古もいいですね。
みなさん、また一緒に稽古しましょう!

八十八夜

昨日の稽古では子どもにちまきと柏餅をプレゼントしました。
たくさん食べて大きくなってください。
大人はたくさん食べると横に大きくなってしまうので。

さて、五月二日は八十八夜。最近の子どもはあんまりしらないと思いますが、有名な唱歌で「夏も近づくはーちじゅうはーちやー」という「茶摘み」の歌があります。
八十八夜というとお七夜とかと同じで88番目の夜、ということになります。中学生の時は元旦から数えて88番目は三月なのになぜ五月に八十八夜なんだ、と思っていました。それは単に陰暦を知らなかっただけで、八十八夜は旧暦の元旦すなわち現在の立春から数えて八十八日目のことを言います。
この時期までは気候の変更が多く、霜が降りることも多かったため、農作物を作る作業に注意する必要があったことから、まず暖かくなって大丈夫な日を八十八夜という節目の日として定めたのです。
簡単に言えば、この日になればもう夜になっても霜を心配する必要がないくらい暖かくなったよ、というわけですね。

八十八夜は季節を表す節目の日ですが、中国から伝わってきた二十四節季と違って、日本のオリジナルの日で土用などとともに「雑節」とも言われるそうです(調べました)。

夜もそこまで冷えないから子どもがおなかを出して寝ても大丈夫な季節、と考えられるかもしれません。
もう夜も冷えないから身体の堅い大人も安心して稽古できるぞ、という節目かもしれません。
八十八夜が過ぎると新茶の季節で間もなく立夏です。
夏は稽古に最適な季節。頑張ってたくさん稽古しましょう。

5月1日稽古日誌

今日の稽古は大人が「面目ない」日でした。

まず、稽古は必ずしも一方的に教えるものではないと思います。
もちろん、そういう稽古もあるのですが、norikoさんがやる場合はそうでなくてよいと思います。
norikoさんは「指導する」という立場で稽古をする必要はありません。
「今自分が悩んでいること」「自分が今目標としていること」
を目指す技や稽古を行い、みんなに自分の目標や悩んでいることを説明し、その上でこうやりたいといえばいいと思います。
自分がやりたい稽古について秀でている人がいれば、いろいろなアドバイスも出てくるでしょうし、明確な目的意志で行われている稽古は、理解しやすいので参加している人は「この稽古は自分にとってこんな風に役立ちそうだ」と受け止めやすいでしょう。
そうすれば、その人のスタイルと違ってもきっと役立つ稽古になるはずです(もちろん毎回全く自分のスタイルと異なる稽古ではつらいでしょうが)。
合気道の稽古は自分の身体や年齢・性別その他もろもろの要素にあった形でやるべきで、先生のコピーをつくることが目的ではないと思っています。
だから、気楽に「一緒に考えて」という気持ちで稽古をすればよいのではないでしょうか。

一方で、中学生コンビは超しっかりしていました。うーん、うかうかしていられない。
皆の前で照れている以外は、説明も私よりしっかりしているんじゃないかと思うくらい。
身体の動きも見ていて気持ち良いし、堂々としていました。
技そのものも自分が究めたい技をしっかりと主張し、自分が注意しているところをきちんと説明もできていました。
誰でもいつでも稽古を先導することができる、そんな風にはやくなりたいですね。

宝物です!

今日、外出から家に戻ってくると、すばらしい贈り物が届いていました。
他人が見ると「なんだこの汚い棒は」と思うものですが、私にとっては宝物です。

私が学生時代から社会人にかけて東京にいた計15年間くらいの間、使わせていただいていた素振り棒です。
私が敬愛する大先輩の持ち物でした。
その先輩が昨年亡くなられて、その形見として奥様よりいただきました。
生前先輩がお会いした際に、合気道を続けている私にこの棒を「やるよ」と言ってくださいました。
できれば、お元気なうちにもう一度お会いしたかったのですが、残念です。

私にとっては学生時代の思い出ともいえる宝物で、再び巡り合えたことに感謝するとともに、これを使って頑張って稽古しようとあらためて思いました。
あんまり嬉しかったので、写真付きのブログです。

tetsu

早く元気になってください。

今日、道場の仲間から連絡がありました。
体調がすぐれずしばらく稽古を休んでいるのですが、元気そうな声を聴いて安心しました。
もちろん一日も早く稽古に復帰してほしいのですが、何よりも第一なの元気な声を聴かせてもらうことです。
余計な負担をかけることは論外だと思っています。

いつまでも待っているので、ゆっくり元気になってください。
でも、顔を忘れないように、時々遊びに来てね。

昔の仲間から時々連絡があります。
とても嬉しいことです。中には変に気を使ってしまう人もいるのですが、気軽に連絡をくれればいいのに、と思っています。
仲間っていいですよね。

4月28日稽古日誌

今日は個人で稽古しました。
相手は娘。父娘水いらす?です。(でも全然ほほえましくない気が)
正面打・片手持・両手持・諸手持で、一教・二教・三教・四方投、入身投・呼吸投・天地投・回転投・呼吸投を小一時間。
最初の正面打の技の時には「ふふふ、未熟者め。」といろいろいちゃもんをつけながら稽古していたのですが、四方投で状況一変。
140cm足らずの子どもの腕を両手で全力で掴んだ瞬間に畳にたたきつけられ、頭を強打。
まずい、侮っていた。
うーん、自分で書いておいて子どもを馬鹿にしていた。
と同時に強く感動。娘には一緒に稽古できなくなった仲間がいますが、互いに一生懸命頑張っていると信じています。
もし、このブログを見ていたら安心して下さい。着実にうまくなっています。また稽古できる日を楽しみにしています。
みんなも頑張ってください。
ということで、そこからは少し本気になって、父娘殺伐と稽古しました。
その後基本太刀を一通り稽古して(こちらはまだまだ未熟)、稽古終了。
稽古時間は一時間でしたが、よい稽古ができました。
満足。

それにしても、子どもにとって「うまくなること」は不可欠ですね。
大人にとっては、道を究めることを目標とする人もいれば、ストレス発散のためにやっている人もいて、おいしいお酒も飲むためにやっている人もいるかもしれません。
でも、子どもにとって習い事はあくまで「うまくなるため」以外の目的はないと思っています。
そんな子どものニーズにこたえねば、と思った稽古でした。

4月27日稽古日誌

今日は子どもは少なめ。
一人とんでもなく寝坊してきた不心得者がいました。ここで報告しておきます。

大人は多くてしっかり稽古ができたと思います。よかったです。
準備運動のあと、最初に片手持の二教。
体を入れ替えながら転換して相手を崩すところがポイントで、転換の大きさをうまく調整できるかが大切です。
いったん崩れた相手の身体が持ち直さないようにするには、動きの流れとバランスをうまくコントロールする必要があるので、なかなか最初はうまくいかないと思います。

次に片手持から転換して呼吸投げまたは側面入身。
持たれた手をうまく誘導して、相手を自分の動きの流れに誘い込むか、バランスを崩しておいて体勢が整わない状態のところに技をかける必要があります。この技で難しいのは、自分の力みやあせりが相手のバランスを復活させてしまうところで、これもなかなか感覚的に難しいかと思います。

ここで、技を出す人を交代。
次の技は片手持からの隅落とし。
この技も相手をうまく誘導することが大切で、いったん崩れた体勢が戻らないように隅落としをかけるのがなかなか難しいと思います。かける気にはやると相手のバランスが整ってしまう(これが結構多い)ので、かなり稽古が必要な技です。

その次は諸手取りの呼吸投
手を取られる際に手を返すかどうかは好みの問題だと思いますが、手を返すか返さないかで、自分の身体の動きの大きさと向きが決定されるので、大きく動くかコンパクトに動くか変わります。それぞれのスタイルをきちんと稽古しましょう。

またまた技を出す人が交代で、今度は山鉄さん。
正面打を外側から捌いて回転投げ。かなり難しい技です。正面打ちの勢いをそのまま削がないように捌いて流す必要があります。高度でマニアックな技で、いかにも山鉄さんの好きそうな技です。かなり難しいのでできなかった人も気にしないでください。

次は正面打ちの四方投げ。正面打ちを捌いて四方投げに持っていくのですが、普通は正面打ちの方向と四方投げの方向が微妙に異なるため、その誘導が難しい、やはり高度な技だと思います。頑張りましょう。

最後は杖の技を一つ。二教の誘いに対して、外と内に捌いて肘決め投げと呼吸投げ。
これまで体捌きの練習をやってきた甲斐があって、意外に皆が出来ていて驚きました。

今日はたくさん技ができてよかったです。

4月24日稽古日誌

今日の稽古は前半はいつも通り基礎の身体つくりを行って、後半は関節技を稽古しました。
「関節技はシステム」が私の持論です。
関節技はきちんと稽古すれば必ず上達すると信じています。
また、子どもの膂力でもしっかりとしたシステムにのっとって技をかければ十分大人にもかけられると考えます。
ただ、関節技のシステムは非常に複合的で複雑なので、なかなかコツを身につけることが難しいと思います。
うまくかかった時の感覚を大切にして、目標を定めた稽古をすることが大切だと思います。
今日の稽古で、少しでも「感覚」が感じ取ってもらえれば、と思います。

ちまきと柏餅(子どもの日)

もうすぐ子どもの日。端午はもともと五節句の一つ(人日、上巳、端午、七夕、重陽)の一つですが、最近では節句の行事をやる家庭も少なくなってきたので「子どもの日」という方が一般的かもしれません。 私が以前いた道場では、館長の発案で子どもたちの健全な成長を願って柏餅粽(ちまき)をプレゼントしていました。私もこの行事は好きで、うちの道場でもやりたいな、と思っています。

で、今回は粽と柏餅のお話。子どもの日の定番の粽と柏餅ですが、実は本来セットの食べ物ではありません。

柏餅に使う柏の葉は、新芽が出るまで古い葉が落ちません。そのため「古い葉(親)」と「新しい葉(子)」が途切れない、すなわち「家系が途絶えない」「子孫繁栄」と縁起をかけた食べ物です。ただ、「子孫繁栄」が端午の節句とどのような関係があるかははっきりしていません。たぶん柏の新葉の取れる時期なので、この頃食べるようになったのかと思います。文献に端午の節句の風物として柏餅が登場するようになるのは江戸時代なので、実は結構新しい食べ物です。

一方のは中国の故事に由来する食べ物です。今から二千年前の中国の楚という国の政治家の屈原という人が、祖国の未来を嘆いて川で入水自殺します。屈原は詩人としても非常に有名で、その代表作「楚辞」は歴史の授業でも必ず出てきます。屈原が自殺したのが、端午の節句(五月五日)だったので、この日に食べられるようになりました。 愛国者である屈原を弔う目的で、魚が川に沈んだ屈原の身体をつつかないよう、端午の節句の日(端午節)にササの葉で包んだ米の飯を川に投げ入れたのが起源とされています。 この故事には次のような別の伝説もあります。屈原の死後何百年か後の漢の時代に、川のほとりに屈原の幽霊が現れます。屈原の幽霊は、里の者が毎年お供えを捧げてくれるのはうれしいが、自分のところに届く前に蛟龍という悪龍に盗まれてしまうので、蛟龍が苦手にしている葉で米を包み、五色の糸で縛ってほしい、と言います。屈原の言うとおりにしたものが現在の粽の起こりである。

どちらの伝説が正しいにしろ、粽は二千年以上前から食べられていることは間違いなく、二つの食べ物間はまったく違うものだということがわかります。

とはいえ、どちらも季節に関係あるだけであんまり「子ども」と関係ない気もしますが・・・。まあ、おいしいし、子どもの喜ぶからいいですね。

歳をとっても

今日稽古に参加して下さった方と話をしたことをこちらにも。

私は柔術の魅力は「歳をとっても続けられること」だと思います。
もちろん、年齢を重ねてもピークを維持し続けるのはとても大変なことだとは思います。

しかし、「技術」によってそれをかなりのレベルで維持できるのが柔術ではないかと思っています。
今武道が好きで一生懸命稽古している、どうせならそれをずっと続けていきたい。

とはいっても柔術なら全部OKかというとそうでもないと思っています。
柔術をやっていても、特に初心者は力任せの技や、勢いに任せた技に走ってしまう人もいます。
そういう人はやはり年齢とともにしんどくなっていくと思います。
さもなければ、惰性に陥って「やれているようなつもり」になって満足してしまう(でも、そうなったらそれはある意味満足できて幸せかもしれませんが)。

私自身はそれがいやなので、無駄をどんどん削ぎ落とし技術の芯だけを残すような、そんな意識を持ちながら稽古をやっていきたいなぁと思います。
もちろんそれぞれの人にそれぞれの目的があるので、それぞれ自分にあった稽古ができればいいと思っています。
名古屋至誠館は(多分)上に述べたような方向性で稽古しているんじゃないかな、と思っています。

やっぱり、いつまでも好きな武道を続けるために「柔術」らしい「柔術」をやらなければ!
いかがです?

4月20日稽古日誌

今日はとてもたくさんの参加者がいました。感激です。
大人は2人の有段者と新しい人が1人稽古に参加してくれました。
子どもは新しく2人が稽古に参加してくれました。
そのうち一人は、スポーツセンターでの合気道教室に参加した子で、一通り受身とかできていたので教えやすかったと思います。

最初は正面打ち入身投げ。参加者のスタイルが多様なので、まずはいつも通りのやり方でやってもらいました。
次に、少し参加者の希望も取り入れて「ちょっと抵抗してみる」稽古をしてみました。
あんまりやると稽古がギスギスしたり、力任せになったりしかねないので困るのですが、少し抵抗されるだけで以外に技はかかりにくい。
その理由とどういう対応があるか、考えながらの稽古をしました。

次に、片手持ちの回転投げ。
最初は外回しの方法で、どうしても力でやると係りが浅かったり、無理やりかけなければならなくなるので、正中線と軸の動きを意識しての稽古。
二種類の崩し方とそれぞれの長所短所を確認しながらの稽古しました。
続けて内回しの回転投げ。
なのですが、どうも大人はこのあたりからうさんくさいことをやり出していました。

今日は最近のメインとなっている正中線と軸の動きを使う形で技を行いました。
次の時には、動線を読むことを意識する稽古をやってみたいなぁと思いました。
やるかどうかはわかりませんが。

今日参加者していただいた方のコメントもお待ちしています。
明日は膝と腰が筋肉痛かな?