離見の見1

稽古に心得べきことあまたあるに、離見の見こそそうなき肝要なれ。
為すに於いてすると見る己に一することこれなのめなり。
これを我見とぞ言ふ。しかれど自ら見るを以て自ら為すのひがえ知らざることことわりなり。
ゆえに離見の見これ寛容なるべし。此我を以て被我とするを離見の見と言ふ。
己を見るに己にあらざるによるこそ、己を正しきに導くゆゑんなれ。
この一事を以て学ぶのはじめとすべし。


稽古をするに当たって自分の技を客観的に評価することは非常に重要です。
身体の感覚は言語化が困難な感覚のため、どうしても主観的に捉えがちです。
しかし自分の技を主観的に捉えているうちは、微妙な感覚のずれを看過してしまいがちになります。
このずれを修正するためには、ずれを把握して修正してくれる先達が不可欠となります。
個々の身体感覚はそれぞれ異なるため、画一的な稽古を強いることは却って上達を阻害します。
従って、稽古そのものは個々の感覚に沿ったものを行うべきですが、それを修正する必要があります。
それには、ずれを指摘し修正する側に非常に繊細な感覚が必要であると考えます。
特に言語化しにくい身体感覚を指摘するのですから、言葉も巧みでないと理解しにくいでしょうし、言葉以上に身体を使って細かく説明することが不可欠となります。
ましてや、それほど技術に差がない場合は、ずれを指摘し修正することはほぼ不可能だと思います。
とはいえ、なかなかそんな先達に巡り合うことはできないので、せめて自分の技を客観的に評価する努力が何よりも大切になると考えます。
その際、自分を客観的に評価する視点として自分を適切に評価してくれる人を鏡として普段から稽古するとよいでしょう。
その場合も、自分勝手に視点となるべきもう一人の自分を歪めないように常に意識することが必要となります。
そうでなければ却って自分の技を客観的に歪めてしまい、一層悲劇的な結果になるでしょう。
それほど身体感覚を磨くことは困難だと考えます。

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