「身体についての考察【難】」カテゴリーアーカイブ

身体の使い方・作り方を考えてみる

関節と筋肉の使い方01

合気道だけではないと思いますが、柔術ではかなり特徴的な筋肉と関節の使い方をします。

筋肉全体を一つにして動かしたり、一部分だけを緊張させ残りを弛緩させたり、表層部分と骨の近くの動きを変えてみたり。
普段使う使い方とは全く別の身体(筋肉)の使い方をすることが柔術の特徴かと思います。
かなり内面的であり、理論的な稽古で、また「地味」でもあります。
どれも難しいのですが、研究し稽古することはとても面白いです。
私自身はこうした「筋肉の動き」を意識する稽古がとても好きです。

普段の稽古ではなかなかできませんが。

重心-後の先-01

今週は「相手の重心を制する」ことについていろいろと考えていました。
本当にいろいろと考えることができる、やりがいのあるテーマだと思います。
重心を制する、と一口に言っても単純な動作ではないと思います。

ということで、少しずつ考えてみようかと思います。
仮に相手の重心を制することに成功したとしても、重心を制しただけではまだ相手の力は死んでいません。
特に相手の膂力が強靭であれば、力が拮抗する状態が続きます(もちろん完璧に相手を制すれば力は不要と思いますが、そうであっても同じ効果を生むためより楽に技をかけられるという点で以下に述べるように思います)。

で、(相手の重心を制しているとしても)相手と拮抗している状態から不要な力をかければ、せっかく優位に立った体制も再度逆転してしまいます。
そこで、正中線と軸を中心に自分の体を全体で一体化した上で、接触点に意識を集中してその点に重心を重ねて力をかけるようにすれば、腕力や膂力でなく自分の体重で相手を崩すことができると思います。
体重による力積は体格的にかなり不利な場合であっても腕力や握力に比べればかなり勝っていることは明らかです。

問題はどの時点で、自身の身体の一体化と接触点への意識の集中を行うかだと思いますが、少なくとも一体化については静的な一体化と動的な一体化があると考えます。

子どもと型稽古

子どもの稽古についていつも悩むこと。

子どもの型稽古のやり方です。
いつも感じていることですが、子どもはとても吸収力が高いので、稽古したことはすぐに覚えてしまいます。
できるだけいろいろな技ができるようにバリエーションを増やせば、その分だけたくさんの種類の技ができるようになるのですが、一方で雑になってしまうところもあります。

雑な形が身についてしまうと、修正はなかなか大変です。吸収力の高さは「身体の芯に染みこむ能力」なので、一旦染み込んだ色を抜いて新しくするにはかなりの労力とやる気を必要とします。
特に中学生くらいになると心も身体も大きな転換期になるので、ただでさえ変化する自分の身体を持て余すのに、そこに身体の使い方の矯正をするのはかなりの負担です。加えて精神的な転換期で自尊心も大きく出るころなので、自分の培ってきたものを再構築するのは大変でしょう。

大学生くらいになればそれらの時期は過ぎるので、やりやすくなるのでしょうが、そこまで待てないという気持ちもあるでしょうからなかなか悩ましいところです。
というわけで、どれくらいの割合・頻度・内容・意識で型稽古をやるかはいつも悩んでいます。

絶対速度と相対速度02

今回は相対速度について考えてみたいと思います。

相対速度とは単純に考えれば自分と相手の速度の比です。
例えば自分の速度が秒速3mで、相手の速度が秒速2mだとします。
二人がこの速度で同じ方向に動けば、自分から見た相手の速度は秒速1mに見えます。
二人がこの速度で反対に動けば、自分から見た相手の速度は秒速5mに見えます。
ここまでは、比較的考えやすいのですが、実はこの理論だけでは相手を制することはできません。
というのは、相手を制するためには絶対的に相手より先の場所にいなければ(あるいは先に動いていなければ)いけません。
とすれば、結局は相手より早い速度で動かなければならないという結論になります。

しかし、それができないから剛術をあきらめたのですから、この理論「だけ」では相手に先んずることはできません。
そこで、どうしたら自分より速い者より遅く動きながら、早く制することができるか考えなければなりません。
ここから先が柔術での相対速度だと思います。
柔術における相対速度は「相手を制している」という結果から逆算することで導き出される動きの理論だと思うわけです。

絶対速度と相対速度01

私は合気道や柔術の動きの絶対速度は遅いと思っています(異論がある方すみません)。
例えば、空手のように静止した状態からどれだけ最短時間で拳や足の速度を最高速にもっていくかを突き詰めていく(とこちらも異論は聞き流して)と考えられる武道では、いかに身体の動きの無駄を省いて絶対速度を上げるかが重要になるのでしょう。
もちろん、柔術においても絶対速度が速ければ速いほど相手に対してゆとりができるので技はかかりやすくなります。
しかし、物理的な速度には限界があるとともに、そもそもそれだけ絶対的な速度が出せるのであれば柔術より剛術の方が向いているのではないかと思います。
例えば、力積については速度が2倍になれば力積も2倍に、運動エネルギーについては速度が2倍になればエネルギーは4倍になります。
で、私自身はそんなスピードに自信がないこともあり、剛術は途中で断念しました。

それに対して柔術における速度は相対速度であると考えます。
相対速度という表現を用いると、相対速度であっても速度そのものは存在するのだから、やはり絶対速度は必要だろうという意見も出てくると思われるので、もう少しきちんと定義するなら、ここでの「相対速度」とはアインシュタインやガリレイの相対原理における「みかけの速度」の意味での速度を意味します。
例えば、かなり早い突きをさっと捌いたとします。この時絶対速度としてはたいしたことがない動きであっても、相手の突きを「いとも簡単に捌いた」という結果があれば、それを見た人にとっては「あんなに早い突きを捌いているのだから、捌く方の動きはもっと早いのだろう」と思われます。つまり、捌く方の速度は、突く方の速度を基準に評価されるのです。

これを別の言い方で言い換えると、如何に相手の速度にのせるかのような感覚で技を出すか、が腕の見せ所になるわけです。
それゆえ、柔術ではいかにに技術によって「相対速度」(特に相手に対して)を向上させるかが、最重要な課題になるわけです。
また、絶対速度ではなく相対速度であるがゆえに、物理的な肉体の力がなくなったあとの年齢でも技術が向上しうると思います。

突きの技

せっかくカテゴリーを分けているので、詳しい話はこちらでと言うことに。

稽古日誌にも書きましたが、突きに対峙するとどうしても恐怖から身体が硬直してしまいます。
身体が硬直するということは筋肉も硬直するわけですから、当然に力みます。
力むと接触点で相手にもその緊張が伝わるので、どうしても互いに踏ん張るような状態になってしまいます。

これは突きに対する場合に限ったことではありませんが、やはり脱力が大切だと思います。
それを言葉で説明するのが難しいので、稽古でもなかなかうまく説明できていなくてすみません。
初心者やすこしかじった人は、勢いで突っ込んでしまいがちです。
中には少しセンスがよくて一見タイミングよく入っているように見える人もいますが、本当にきちんと入っているかどうか「だけ」は制された腕や身体の感触でわかります。

例えば、今日は稽古で鹿島の技を行ったのですが、その中についてくる手を制して、反対の手で相手の首を制するというわざがあります。
この技や五教なんかがとてもわかりやすいのですが、初心者の技を受けると攻撃をしかけた手に衝撃を受けます。
もちろん、ゆっくり目に技を出したりすれば衝撃は小さいのですが、ともかく肘から先の部位だけに衝撃を感じるのは相手が勢いで突っ込んでいる証拠です。
仮にタイミングを計るのがうまくて早めに踏み込むことができていても、突っ込んでいるだけである以上、力みは入っているので接触点が硬直します。
必然、その後に力をいれてつかんだり、振り回して投げたりすることになります。

私の先生は突いてくる腕を押しとどめるのではなく、(やわらかく)押さえつけるように制します。
先生に腕を制せられると痛くないのです。腕への衝撃はなく、衝撃は肩の付け根より体幹部分に感じます。
興味のある人は、一緒に稽古する相手や先生にかけていただく際に神経を腕と肩に集中して感じてみて下さい。

これは私の思っていることで正しいかどうかは全く不明ですが、おそらく先生は運足+体捌きと腕の動きを別の時間軸で行っていらっしゃると思います。
別の表現をすれば、二つの緩やかに連結している大きさの異なる歯車で、足と手を動かしているのだろうと推測しています。
そのため、踏込みをした足と手の動作の終端にほんの少しのズレ(意識的なズレ)が生じます。
この感覚が技をかけていただいてたまらなく気持ち悪いと同時に気持ちいいんです。

というわけで、名古屋至誠館の道場生はお互いに稽古する際に腕に衝撃を感じたり、それをごまかしたりした場合はお互いの向上のためにきちんと教えてあげて下さい。
言葉での説明が難しいので、これ以上何とも書きようがないですが、また稽古でいろいろ研究しましょう。

遠心力とバランス02

前回も書いたのですが、口で説明するのは難しいので感覚的なものになってしまいます点ご容赦下さい。

段階的に考えてみます。
遠心力に振り回されないようにするもっともよい方法は「手足を伸ばさない」ことです。
例えば手に思い荷物を持って回転します。このとき、手を縮めていると荷物に振り回されることはあまりありません。
反対に、手を伸ばして回転すると強い遠心力が働いて、荷物が飛んでいきそうになります。
さらに回転の速度を上げると身体のバランスも崩してしまいます。

つまり、遠心力に負けないようにするには、できるだけ手足を伸ばさないようにすればよいわけです。
わりに多くの人が、この点に気が付くのではないかと思います。
ただ、その後が困るのだと思います。
そのままバランスが崩れないことに重点をおいて身体を動かすと、どうしても動きが小さくなって技がかかりにくくなります。
もちろん、かなりの上級者になればそんなことはない(というかどんな状況でも技がかけられる)のですが、中級者くらいではそんなわけいにはいきません。
結局、バランスをとるか技をかけることをとるかが選択になってしまっている人を時々見かけます。

ここからは完全に私見でかつ模索中の内容です。
自分がバランスを崩さずに回転できる、あるいは手足を自由に動かすことができる範囲を仮に「制界圏」と呼ぶことにします。バランスを崩さずに自由に技をかけることができる、「自分を制御できる」「相手を制することができる」範囲という意味で使っています。公的な言葉ではないのであしからず。
訓練がなされていない状態で制界圏は非常に狭いです。それをすこしずつ半径を広げる(範囲を広げる)ことが身体を自由に使うための修練だと考えています。
この稽古は身体の使い方なのですが、かなりイメージが先に立つ(イメージに合わせて身体を動かす)ものではないかと思っています。末端の部位と身体の根幹(軸)が一体となるイメージで身体を動かす。その際にあくまで動きの根幹は軸になるのですが、本来の物理的な範囲を超えた距離で手足を制御するために、意識はある程度末端の手足にも置かなければならないと考えています。
ただし、根幹の軸に関して意識がしっかりしている、いいかえれば無意識に近いレベルで制御ができているのであれば、意識の大半を末端部においても大丈夫なのではないかと思います。

とはいえ、人間の意識と身体の仕組みとして、意識を置いた部位に力みが生じやすいため。構造末端部に意識をおくと力みが生じて相手の体重に振り回されてしまいます。

感覚的には身体の「自然状態の拡張」的な動きなのですが、意識が必要であるようにやはり本来「自然」ではない動きや形なので、そう簡単にはできないものだと思います。やっぱり柔術は難しいです。でもそこが面白いのですが。

遠心力とバランス01

久しぶりに「丸儲けさん」の好きな「小難しい話」です。

技をかけるときに、できるだけ大きく動きたいという欲求と身体のバランスを崩さないようにしたいという欲求の、なかなか調和しにくい二つの欲求が併存します。
特に転換したり回転したりする技については、より大きく相手を崩すためにもできるだけ大きく動きたいと思うわけですが、何も考えずに大きく動くと自分の身体のバランスも崩れてしまいがちです。

「バランスを崩さないように動く」については、また改めて述べることにして、今回は「より大きく動く」ための私なりの考察をしてみたいと思います。

・バランスが崩れないように、軸をしっかりと意識して動く
・手足の動きが軸の動きと完全に一致している

という二点をきちんと意識して稽古していると回転する技において、身体の個々の部位は同心円を描くことになります。そして多くの場合手先とつま先の動きが同心円の最外殻を形成することになります。
物理的に考えると円の動きに対しては外向的な力すなわち遠心力が働くことになります。この遠心力は同心円を描きで同一速度で運動している身体の個々の部位の中では、その最も外側に位置する部位が一番大きくなります。
簡単に言えば、動きの一番外にある「手足が一番外に向かって引っ張られていく」わけです。
こういえば、なるほどと思う人もいるかもしれません。
身体は軸を中心に安定しているわけですから、円運動において安定する側に働く力は内向力であり中心である軸に向かって働く力なわけです。
逆に、身体のバランスを崩すのは身体の中心軸から離れていく方向に働く力なので、円運動の動きにおいては身体から遠いところで早い回転が行われるほど外側に振られてバランスを崩しやすくなります。

力を使わないためには、円運動を辞めるわけにはいかないので、最外殻に生じる遠心力をどうにかして軽減するようにしなければなりません。
そのために必要なのが、「速さのコントロール」と「遠心力を相殺する力の意識」だと思っています。遠心力は速さに比例するので力任せに振り回せば、より大きくなります。どんな上級者でもそこに働いた力を制御することは不可能です。そこで、最外殻での運動速度が過度にならないようにコントロールすることで遠心力を抑制することが大切になります。こちらは比較的理屈でい理解しやすいかな、と思っています。

もう一つの「遠心力を相殺する力の意識」は言葉にするのが難しいです。これは単純な一つの動きや意識ではなく、筋肉の緊張・弛緩、軸が傾斜しないようにする、など複合的な要素があると思うのですが、ちょっと眠くなってきてまとめる思考力がなくなってきたので、明日にでも続きを書きたいと思います。

たかが一歩、されど一歩

今日の稽古で一教の入身について稽古しました。
私は、一教の入身の明暗はいかに入りがたい一歩を入ることかと思っています。
口で「もっと一気に入り込め」というのは簡単なのですが、これを体感してもらうのはとても難しい。
さらに、その上でそれができるようになるのはさらに難しい。
一歩、さらに言えば一足を深く踏み込むためには、以前書いたように無意識に動いてしまう身体を意識的に動かないようにする必要があります。
意識して脱力することはとても難しいです。
合気道を初めて25年になりますが、いまだに十分な自信はありません。
みなさん一緒にがんばりましょう。


Today we praciced the movement of “Ikkyo”.
Especially the movement of foot.
I think what is the most important is to step forward even if it is too difficult.
Telling to do so is easy, it is so difficult to do actually.
To move farther forward, to step in the best position, we have to controll our body.
Usually, our body move natually when we feel the danger.
Our body hardens when we are under the danger.
So we have to controll our body softly in Aikido.
To move softly and smoothly in emergency is very difficult.
I haven’t been able to do so perfectly yet, even I have practiced Aikido for 25 years.
Let’s practice together.

四方投について02

先日四方投げについて投稿したところ、予想通り稽古中に質問を受けました。
ということで、今回は四方投げについて第二弾です。
せっかくなので少し詳しく書いてみますが、読みにくいかも。

相手の右手をとって(話を具体的にするために手を固定して書きます)四方投げをかけるときに
 ・自分(投げる人)の左側を通る際に相手の腕や身体がひっかかる
 ・投げる直前に自分の右側を通る際に相手がとても重く感じる
最初のような場合、初心者はその状態で無理に相手を投げようとするため掴んだ手が頭の後ろに大きく回ったり、頭の上を回る際に大きな抵抗を感じたりします。そうなるとさらに無理に投げるために力を入れて相手の手を握らざるを得なくなります。初心者は自分が力んでいることに気が付かないことが多いです。そこで、一緒に稽古をしている相手がまずは意識を集中して相手の力みを感じとる必要があります。頭の上を回る際に力で引っ張られていないかを確認します。本来は相手の技に合わせて受けるべきなのですが、相手の力みを確認するには受ける際に、少しばかり腕の前腕に力を入れます(引っ張るのはNGです)、相手が力んでいる場合力を入れるといきなり動きが重くなって技がかかりにくくなります。
相手の力みを確認したら、そのことを伝えながら力まないような形で技をかけるように修正するとよいと思います。

後者のような場合、特徴として右腕が身体に水平な状態に開き、肘が方のラインより上に来ます。正面から見ると右腕が「ム」のように見えます。この状態になると相手の体重が引っかかって相当投げづらくなります。それでも無理に投げようとすると、相手の体重を支える必要があるため背負い投げのような恰好になります。具体的には手と肘と腕の位置が一体になったまま右肩を前に押し出すように投げてしまいがちです。さらに力みがひどい場合は右肩の回転と同時に右腰が右斜め前(あるいは若干右上方向に押し出すように)に動きます。それが高じると投げ終わった瞬間に相手の体重に引きずられて右足がふらついたり、勢い余って左に回転してしまったりします。見た感じで右半身が全部一緒になって動いている人は、(引っかかって)動かない相手を無理に動かそうとしている可能性が高いです。
この方法は単に効率が悪いだけでなく、無理に相手を投げる際に相手を怪我させてしまう可能性もあります。すでに腕が極められている状態で無理に我慢するのは危険です。こういう投げ方をする人に対しては、受け側の身体が相手の右後ろ(力んでいる場合身体より後ろの位置で引っかかります)に来た瞬間に少しだけ相手の手首を握る手に力をいれるか、相手の手首を握っていない場合は取られている手を握り締めます。それだけで、相手にとってはかなり抵抗が強くなるので、力任せに投げにくくなります。何度もいいますが、本来の稽古は正しい形でお互いに相手を感じとりながらきれいに受けるべきです。あくまでこの方法は相手が力任せに投げる際に少しだけ負荷を軽くする防衛策です。何よりも一番大切なのはそういう無理な投げ方をしている初心者に間違いを指摘してあげることです。力任せに投げることは気分がいいかもしれませんが、技の上達の面でも安全面でもよいことはありません。
先生方の見本を拝見すると、手・肘・肩は柔らかく相手の動きを吸収し、腰と下半身、上半身は別々に動くことで力を理想的に伝えられています。

後者の問題点はこの段階まで来ると修正は困難です。そういう状態(引っかかる)までの技の過程を根本的に修正する必要があります。
言葉にするのはやはり難しいです。実際の動きについては稽古の中で確認しながらみんなで直しましょう。

投稿についてのお知らせ

このHPについてのルール? を少し説明します。
以下細かく書いてありますが、あんまり気にせず適当な場所に適当に投稿してください。
投稿されない方がさみしいので。

1.投稿について
このHPに投稿できる人は、投稿する権限のある人です。
関係者で投稿できません、という人は私まで連絡下さい。

2.コメントについて
投稿に対するコメントは誰でも可能です。どんどんコメントしてください。
ただ、宣伝やDMなど不要なコメントもあったりするので、コメントを書いても確認されるまでは掲載されません。
例外として、投稿することができる人のコメントは即時掲載されます。

3.投稿のカテゴリーについて
(1)子どもと合気道
道場の子どものことや子どもの稽古のこと、子どもについて合気道他武道に関わることなど、自分の思うことをどんどん書いて下さい。
子どもについてこんなことを思うんだけれど・・・という内容を投稿する場所です。
(2)武道についての雑感
これが一番メインかなと思います。合気道はじめ武道全般について思うことを何でも書いて下さい。
自分にとっての武道や、いつも稽古していてこんなことを思っているというつぶやき程度のことから
いやいや、俺の武道観を聞いてくれ、という重みのあるものまで、
本当にささいなことでも構いません。稽古のストレスをためないために使ってもらって構いません。
ともかく合気道や武道について何でもおもったことを投稿する場所です。
(3)稽古日誌
稽古を行なった後に感想や希望などを述べる場所です。(2)との違いは実際に行った稽古に関する投稿である、という点です。
「稽古記録」ではないので何をやったとかを書く必要はありません。どちらかというと稽古を終えての心の中が書かれているといいですよね。
(4)身体についての考察
趣味の項目です。私の好みで書いているだけです。でも、書き込みは大歓迎です。別に難しく書く必要も難しい内容である必要もありません。難しく書くのが趣味なのは私と山鉄さんだけなので、それ以外の人は「(3)の技術バージョン」とでも思ってもらえれば十分です。技術的なことについて書く場所です。
(5)雑談
(1)~(4)以外の内容はどうしよう、と思って作りました。後から作られたとってつけたようなカテゴリーです。最もなんでも書いてもらって構わない場所です。
でも、その方が却って書きづらいかな?

何よりも「気軽にいろいろ」投稿してもらうことが一番の目的です。失敗したら削除可能なので、気楽に投稿してみて下さい。

四方投げについて

ちょっと前に
「四方投げをかけると相手が逃げてしまう」
「四方投げをかけると相手がくるっと回ってしまう」
と質問されました。

四方投げは技の中でも非常にそれぞれの方でやり方が異なる技で、稽古するのが楽しいけれど難しい技の一つだと思います。

稽古としては回らないようにしっかり受けて、相手の型がきちんと成り立つようにするのが本道かと思います。
ただ、どうしても逃がしたくない、とその人は言っていたので、それならという仮定で話をします。
一番面倒がないのは、相手の手を絞り上げる(捻じって)回れないようにすることです。
ただし、中途半端な捻じり方では(相手があわせて受けてくれない限り)痛みで回ってしまうので、回ることができないくらい全力で手首を絞りあげる必要があります。
中途半端だと相手は回転します。力をいれて捻じる場合運動の速度が落ちるので、相手に回転するゆとりができます。
つまり相手が身軽で回り込んでしまうと技が空回りしてしまうのです。
そうならないためにも目一杯絞ることが重要になります。

そうでない方法としては、相手の動線の流れの中に自分が入りながら、動線を途切れさせることがないように誘導する方法や、身体上の隙間をなくすような形で相手の身体を折りたたんでいく方法などをとられる方がいます。
これらの方法は見えない流れの上に自分の動きを同調させたり、相手の力に逆らわずに相手を動かして(力をそらして)たたむ必要があるので、言葉で説明することはできません。
実際、この説明だけ見ても初心者ではまず理解できないでしょうし、反対に理解できる人はすでにもうある程度できている人だと思います。
私自身自分が思っているほど本当にできているか(いや論理的に正しいか、も)自信はありません。
道場でも四方投げの稽古の際にはいつもみんなで悩みながら稽古している点です。

というわけで結論としては「そう簡単にはできません」です。
力を使わないのであれば、色々試しながら稽古を積むしかないですね。
と、あんまり参考にならない回答ですみません。m(_ _)m

呼吸法について

前回の稽古でNorikoさんから呼吸と身体の動き、力の出し方について質問がでました。
質問された瞬間よ~く考えて稽古しているなぁ、というかちょっと考えすぎかもってくらいに思ってしまいました。
でも、とてもよい質問なのでちょっとだけ触れてみたいと思いました。

なぜちょっとだけか、と言えば、はっきり言って私にはまだまだわからないので、そんなに深く語れません。

ただ言えることは私自身についても、学生時代に比べて筋力ははるかに落ちています。一方で稽古相手にはどんどん若い人が現れます。
物理的に考えれば、同じ70kgの相手を投げるには、年齢がいくつであろうが同じ力を出さなければなりません。
ところが先に述べたように、筋力は年齢とともに落ちていきます。
この2点から導き出される結論は単純で
  何らかの「別の力」を身体の中から引っ張り出す
ことが必要になるわけです。
これを別の言葉で言えば力の出し方、使い方を変える、ということになるのだと思います。
身体の仕組みそのものを作り変える、という表現を使われる方もいらっしゃいます。

その際のきっかけ、タイミングを作る基準となるのが呼吸の仕方であると考えます。
呼吸の仕方を鍛錬し、身体の使い方を鍛錬する。
その上で、その両者を融合させる。それが呼吸と力ということだと思います。

ところが、以前から述べているように目に見えないものや形のないものは言葉で表すことが困難です。単なる呼吸の仕方は言葉で説明できますが、呼吸がどのように身体に関与するかは言葉にすることはとても困難(というか不可能に近い)と思っています。
自分にも理解できていないことを説明するのですから、一緒に悩んで稽古するしかありません。

というわけで、呼吸が力の出し方と切り離せないことは間違いありません。
その関係は体を動かしながら徐々に理解できるようになるしかないでしょう。
頑張りましょう。

離見の見1

稽古に心得べきことあまたあるに、離見の見こそそうなき肝要なれ。
為すに於いてすると見る己に一することこれなのめなり。
これを我見とぞ言ふ。しかれど自ら見るを以て自ら為すのひがえ知らざることことわりなり。
ゆえに離見の見これ寛容なるべし。此我を以て被我とするを離見の見と言ふ。
己を見るに己にあらざるによるこそ、己を正しきに導くゆゑんなれ。
この一事を以て学ぶのはじめとすべし。


稽古をするに当たって自分の技を客観的に評価することは非常に重要です。
身体の感覚は言語化が困難な感覚のため、どうしても主観的に捉えがちです。
しかし自分の技を主観的に捉えているうちは、微妙な感覚のずれを看過してしまいがちになります。
このずれを修正するためには、ずれを把握して修正してくれる先達が不可欠となります。
個々の身体感覚はそれぞれ異なるため、画一的な稽古を強いることは却って上達を阻害します。
従って、稽古そのものは個々の感覚に沿ったものを行うべきですが、それを修正する必要があります。
それには、ずれを指摘し修正する側に非常に繊細な感覚が必要であると考えます。
特に言語化しにくい身体感覚を指摘するのですから、言葉も巧みでないと理解しにくいでしょうし、言葉以上に身体を使って細かく説明することが不可欠となります。
ましてや、それほど技術に差がない場合は、ずれを指摘し修正することはほぼ不可能だと思います。
とはいえ、なかなかそんな先達に巡り合うことはできないので、せめて自分の技を客観的に評価する努力が何よりも大切になると考えます。
その際、自分を客観的に評価する視点として自分を適切に評価してくれる人を鏡として普段から稽古するとよいでしょう。
その場合も、自分勝手に視点となるべきもう一人の自分を歪めないように常に意識することが必要となります。
そうでなければ却って自分の技を客観的に歪めてしまい、一層悲劇的な結果になるでしょう。
それほど身体感覚を磨くことは困難だと考えます。

正中線2

身体の動きの中で正中線は常に意識されていなければならないと先に述べましたが、この意識は初動から残身まで一貫して持続され続けなければならないと思っています。
正中線に対する意識が持続されている限り、しかも動作の根底に位置している間は「相手を制する」ことも「自らの身を守る」こともできると考えます。
別の面からみれば、正中線についての意識を常に持ち続けることは、「意識と身体」の主従(あるいは上下)関係において意識の優位が確保されていることが具現されている一証明であると思うのです。
しかしある時この意識が途絶えた瞬間に、「意識」は「身体の動き」の背面に下がり、筋肉を主体とする身体の動きが動作を支配することになります。
一旦動作に対する支配権が意識から身体(筋肉)に移ると、よほどの熟練者でない限り、再び切り替えることは極めて至難の業だと考えます。
少なくとも私のように未熟な者には、一旦離れてしまった意識の優位性を、同一動作中に再び取り戻すことはできません。
そのためにも、普段の稽古において正中線への意識を徹底することはとても重要だと思います。

正中線1

正中線については、何度も書きそうなのでとりあえず番号を振っておきます。
正中線を意識して動くことはとても大切、というよりこれなくしてはないと考えています。
身体の中心線前方に文字通り「」を意識してこの線上に力の収束や固定、吸収といったさまざまな動きを集約することが必要だ、と思います。
正中線への意識は力の使い方の意識とは別軸(身体の軸ではなく座標平面における軸)です。
力に関する意識は多様だと思っているのですが、正中線に関する意識は一通だと考えます。
ただし、力の使い方と組み合わせることで、実際の身体の使い方は多様となるので、あくまで「根本的な意識は一つ」だが「身体の動かし方という面での正中線の意識の仕方はたくさんある」ということになると思います。

 

 

反復稽古と惰性

もうすっかり春ですね。
基本の型稽古や反復稽古を繰り返すことが初心者にとって上達の早道であるとは、以前書きました。また一方で反復による惰性ついても述べました。
反復稽古の目的は身体に合気道的な動きの習慣を染み込ませるためのものであり、そうである以上稽古の目的は「癖をつけること」であり、その動きに一定の癖や間違いがあるリスクは織込み済みであると考えます。
問題は一定の動きができるようになった後でしょう。上記の目的がそれなりに達成されてからも同じような稽古を繰り返しているだけだと、惰性と癖の部分が助長されて後から修正することが困難になります。
この時点からは自分の身体との対話が始まると考えています。人間の身体には反射的な学習能力、言い換えれば慣れる力があります。この力は初めて物事を習う際にはそれまでやったことがないことを身につけるのにとても役に立つのですが、一定の閾値を超えると強い癖になるのでず。例えば家具の配置を変えてもつい、以前の場所を探してしまう、などです。
ある程度の形を覚えた辺りで、癖にならないように修正を入れながら稽古する。それが理想だと思っています。癖がついた後では修正は難しく、場合によっては修正というよりは再構築になりかねません。これはとても大変です。
とはいえ、実際にはそのタイミングを自分自身で判断することはまず不可能だと思います。そこがまた武道の難しいところではないかと思います。
いつものオチになってしまいますが、いい稽古をするのは難しいと思います。

 

 

 

力を入れる

最近力を抜くことばかり書いていたら、どうも「力を入れること=悪」と思われているんじゃないかと思えてきたので、力を入れることについて書いてみようと思います。 技の効果を考えた場合、例えば投げ技などでは、完全に力を抜いているより力を入れた方が強く投げることができるのは事実です。

問題は「どのタイミングで」「どの程度の」力を入れるか、ということだと思います。力を入れるタイミングが早いと、そこから先は単に膂力の差で相手を押さえつけたり締め付けたりする力技になってしまうと考えます。この場合、一度でも力を緩めると技の効果が激減してしまうため、常に加増的に力を加え続けていかなければならなくなるはずです。 逆に力を入れるタイミングが遅いと自分自身に肩すかしをするような拍子抜けた形になってしまいます。丁度良いタイミングで力を入れることができて初めて効果が倍増することになると思います。 とはいっても、何よりもその「丁度良いタイミング」を探し求めることが一番難しいのですが。稽古の中で、自分でもうまくいかないし、説明もなかなかうまくできないし。

長くなったので、力を入れる程度については、また改めて書きたいと思います。

力を抜く2

力を抜く稽古はとても難しいと思います。力を抜く練習をしているときにやってしまいがちなのが、妙にふにゃふにゃになって軸や重心までも失ってしまうことや、実は力みが残っているのに「抜いたつもり」になってしまうことです。

稽古している本人にとって特に困るのは「抜いたつもり」になることだと思います。実際には力んでいる状態なのに、それを「力が抜けている状態」だと勘違いして意識と身体に覚え込ませる(刷り込ませる)ことをしてしまうと、後々修正が非常に困難になってしまいます。自分では力が抜けてきたつもりなのに、なかなか技がかからないという状態は焦りやストレスの原因になります。もちろん、さらに稽古を重ねていけば修正はされていくのでしょうが、「本当は力が抜けていない状態」を「力が抜けている状態」と思い込むと基準や尺度を誤ってしまい、なかなか望むものを身につけられない、あるいは不必要に多くの時間がかかってしまうのではないかと思います。

自分自身もそうですが、力を抜く稽古は慎重にやらなければいけない、と思っています。
本当に難しいと思います。

 

意識と身体2

以前意識が主で身体が従だと書きましたが、身体は単に従であればよいわけではなく、一定の自律性を持ちながら従であることが不可欠であると考えます。
身体が自律性を持つということは、体に対して一定の命令(作為的な動作を意識が要求)することなくても、一定の意識の動きや技に対して合理的に反応するような身体を作ることだと思います。
少しやわらかい表現を使うなら、「どんな状況においても身体が勝手に調整して重心や軸を安定させ続けるようになること」と換言できるでしょう。
そうした自律性が身体の基礎として存在した上に、自律的な動きではない所作を意識の要求に従って行い、かつその際にも身体の自律機能が働くことで高度な調整機能が働いた結果として複雑な動きが可能になるのだ、と考えます。