「身体についての考察【難】」カテゴリーアーカイブ

身体の使い方・作り方を考えてみる

手の内について

合気道の練習において相手を掴むというのは主に受けの時、そして固め技のときだと思います。この掴むという行為を指に力を入れて行うと、指の力を強くすればするほど手首は動かなくなると思います。つまり指で掴んでしまうとその掴んだものを次に操る部位はいきなり肘になってしまうということです。 それに対して掌で掴んだ場合は、掌への依存が強くなればなるほどそして指の力が抜けるほど手首の自由度は増します。一つの関節が自由に使えるのと使えないのでは大きな違いがあるということはこちらの道場の方々なら既に経験済みですよね。(指を持たせての体術などで)

この手の内を意識するかしないかということは剣術でも顕著な差を生み出します。というのも一つ考えていただきたいのは、例えば自分が手刀で正面内をする場合に指を力ませるのと脱力させるのとではどちらのほうが威力が出るでしょうか?もちろん当てる瞬間は力を入れるとしても後者のほうが威力が出るものだと思います。

ゆえに剣を持つ際も指の力はなるべく使わず手の内にて剣を包み込むように持つほうが良いという理につながります。もちろん手の内ははじめは硬いのでうまく持てないでしょう。これは体術においても二教や三教等で同じことが言えます。

この手の内の柔らかさはもちろん意識しなくても技の研鑽を積み重ねることで、手の内の重要性に気づけば自然に磨かれるとは思いますが、柔軟のようなものですから意識して早めに取り組むと吉と思います。

 

握る02

長くなったのでわけました。
「握る」ことの続きです。今回は合気道における具体的な理について考えてみます。

それゆえ、合気道において相手の手首や身体の一部を「握る」場合には必ず、無意識の動作が生じるのです。先にも述べましたが無意識の動作は制御できないものであり、言いかえればその動作について「警戒」することはできないのす。つまり、相手の手を握ろうとする場合、意志決定プロセス完了後から握ることを完了するまでの間は「無意識」であると同時に「無防備」にもなるのです。
その無防備な過程の隙を上手く利用しようというのが柔術の考え方なのではないかと思います。

その際、大切なことは攻撃側の行動は通常一定の条件が付されたものであるため、あくまで攻撃してくる者に合わせた術理で技をかけなければならないということです。一番顕著な例がスピードで、スピードの差はこの握る際の隙をリセットしてしまいます。相手との速度差が大きいと、相手が技をかける側の動きに反応して、動作を変化させるのはそのためです。
もう一つ意識しておくとよいと思うのが、意識下で命令した行為は当然一定の範疇で完結するものですが(完結しろという条件付きの命令と考えてもよいかと思います)、その命令を実行するのは本能的な(無意識の)動作なので条件を成就させなければ行為は完了しないということです。つまり、握るという行為が完了しない間は身体は無意識に握るという動作を続けます。そこに隙が生まれるのです。

先日の稽古でも説明しましたが、
この2点
・条件を発動させないような技のかけ方(特に速度)
・行為の完結をさせない
という無意識下の動作への外部的な制御を行なえば相手を力を使わずに崩すことができると考えます。

久しぶりに【難】な話になりました。

握る01

4日の稽古は仕事の都合で、後半のみの参加となってしまったので、稽古日誌がかけません。(TT)
稽古日誌を書きましょうといっておいて、自分がかかないのでは申し訳ないので、代わりに稽古で話をした「握る」ことについて。

よく技の説明において「握る」「握られる」「握り方」という言葉を使います。これらの言葉の使われ方からもわかるように、一見すると握るという言葉は能動態として使われれる言葉であるように見えます。
もちろん、相手の(手首などを)掴む気もないのにいきなり握ってしまうことはないので「握る」という行為は意識的な行為であることに間違いはありません。
しかし、「握る」という動作を考えると、実は非常に無意識に近い動作であることに気がつきます。ここでは行為と動作という言葉を使い分けていますが、握るという行為を具体的に行う手順を握るという動作と定義しるのでそう読んで下さい。
私たちは頭の中で相手の手を握ろうという意思決定プロセスまでは意識的に行いますが、意思決定に基づいて作用手順を行う際には意識は働きません。
すなわち握るという動作は非常に本能的なプロセスであり、ほとんど無意識に行われる動作なのです。

稽古の際に話したと思いますが、攻撃において私たちは先の意志決定プロセスにおける身体への命令に際して一定の条件を付して握り方を決定し、本能的な動作を発動させるのです。
この「条件を付す」ことについてはここでの本題ではないので割愛します。

さて、本能に支配された動作は人間が動物である以上非常に制御困難なのです。もちろん、人間は普通の動物と違って非常に高度に知性と理性が発達しているので、訓練によって一定の本能的動作については発動しないようにトレーニングすることも可能かもしれません。しかし、もし握るという動作について本能から理性へ支配権の変更をはかったら大変なことになります。もし、本能的に握らなくなったら、例えば鉛筆を握る際にもそれぞれの動作の手順(人差し指を動かして親指と同時に対象物に接触させ、左右から同等の圧力をかけて一定のところで力を止めて・・・)とすべての過程を「いちいち頭で命令して」行わなければならなくなります。
そんなことは不毛ですし、人間の動作の中でも根幹的な動作である握るという行為を意識で支配することはほとんど不可能です。

続く・・・

剣の稽古について01

大人の門人も増えて、有段者の数も多くなりました。
白帯の人の稽古日数も増えて、だんだんと稽古にゆとりができるようになりました。
というわけで、ようやく剣の稽古を開始します。
といっても通常の稽古時間内にはまだまだできません。
稽古後稽古や自主稽古の時間帯にやりたいと思いますので、準備しておいて下さい。

剣を稽古する際に最初から気をつけてほしいことは絶対に脇を開けない、ということです。
よく言われることですが、剣の理は合気道の身体の使い方に非常に役に立ちます。
これは考え方を変えると、剣を稽古する際に間違った身体の使い方を覚えてしまうと、本来体幹や身体の使い方の理解に役立つはずの剣術が間違った身体の使い方を身につける形で影響してしまうということを意味していると思います。

剣を振る際に、力を込めて振ると気分がいいです。
そこで初心者は力を込めて振るために脇が空いて肘に力が入ってしまいがちです。
傍から見ていると剣を振り下ろした瞬間に肘が張って一瞬肘が上(開く方向に)動きます。
こういう振り方をしていると組太刀では切り結んだ瞬間や切り終わった瞬間に体が流れたりつんのめるようにバランスを崩すことがあります。この力みを含んだ形が身についてしまうと修正には非常に時間がかかります。

なので、最初は力も入らず、非常に窮屈な姿勢になりますがともかく脇と肘を開けないように剣を振るように習慣づけて、そいう振り方の形を覚えてください。
私もまだまだ未熟ですが、我流の間違った剣は怪我のもとにもなります。
正しい形をきちんと身に着けてください。

剣術についてその2

体術においても同じことですが、剣術でも一つの技を行おうとする時に身体に求められる要素は多岐に渡ります。
体術の方が少しばかりイメージしやすいと思うので例えばメジャーどころである片手持ちの側面入り身について記しますと

1,掴まれた腕を必要以上に力ませない
2,掴まれた腕を動かす際には掴まれた場所から出来る限り遠くの筋肉を使う
3,相手の体側に入り身する際に足で地面を蹴らない
4,3の際に体幹部以外の筋肉を固めない。
5,呼吸の流れを止めない。
6,自分の力の流れに方向付けをする。

個々人によって異なることですが私の中では上述の様に考え、自分に足りない要素を練磨するよう心がけています。

同様に、剣術においては例えば袈裟斬りについて要素を分解すると

1,剣を手の内で持ち続けられているか
2,手首、肘、肩に力みが無いか
3,剣を運ぶ際になるべく手から遠くの筋肉を使っているか
4,呼吸を臍下丹田に収めることを意識しているか
5,足運びの際に地面を蹴らず、足を力ませず、バランスを崩さず動けているか
6,重心が上下動せずに動けているか
7,ものうちに力を出すことを意識しているか。途中で剣先が死なないか。

この様に様々な要素が一つの動きにおいて存在していますので、指導している際に聞かれることとして『この技において私とスキンさんと何が違うんですか?』という問いに対しては何もかもと答えるしか有りません。少し丁寧に書くと『何もかもがある程度は出来ているがあなたの求めているイメージ通りの動きをするには何もかも足りていない』となります。そして特に足りていないものをその時々指摘するようにしています。しかし特に足りていない部分を伸ばさなければいけないのは勿論ですが、最終的には全要素を均一に伸ばさなければならないと思います。

ただし、ここで勘違いを防ぐために申し上げたいのは、あくまでご自身の身体作りに関しては足りない点をどんどん補うべきですが技に関してはそうとは思っていないという点です。

全ての技を、誰にでも上手くかけられるのは理想ですがそんな理想は師範と呼ばれる方々でも難しいと思います。またそういう方は臨機応変に、相手と状況に応じた技を用いられます。

ですがどうしても練習だと、技と相手を固定して行いますので相手の体格との相関において不適切な技を練習せざる負えない場合も多々あります。不適切というと語弊があるかもしれないので言い換えると、その人の現在の力量や体格において技の行いやすさに大きな難易度の違いが存在します。この前提を無視して技をかけることに固執すると、いきなり身体が出来上がるわけも無いので無理な力の使い方やその場のその人にしかかからない技を追い求めるという結果につながります。ですのでかからないならかからないで、技をきれいにかけることに囚われず現在の自分の未熟な点を見つめつつその技の動きから鍛えられるべき部位をコツコツ鍛えることが良いと思っています。

上述からは体術をイメージされるかと思いますが剣術も同様です。全ての技をある程度しっくりいくようにこなすには身体作りが不可欠です。身体が出来上がるのを待っていると生涯かけても合戦にいけるかわからないので、ある程度形を覚えたら先へ進み、合戦までいって袈裟斬り・正眼の構え・無構えに戻るというのでいいんじゃないかと思います。

護身術という意味においても、いろんな技が使えることよりも適宜身体が反応してスムーズに動けることが大事だと思います。こういう面から考えても、一つ一つの技に固執する癖はつけない方がいいのではないかと。

身体と技、どちらかだけが先に完成するということは決してありません。一つの事に集中することは良いことではありますが、固執して視野を狭めることはせず、視野を常に広く持って稽古を続けたいと思っています。(難しいですが)

剣術に関して その1

体術に関しても同じですが、私は剣術が使えるようになる為には大きく分けて二つの柱を育てることが大事だと思っています。

一つは剣術の術理を覚えること。一つ一つの型はどのような理合で成り立っているのかを理解し、その理合をつきつめることが大事です。例えば裏太刀一本目なら、仕手の形、仕手のタイミング、剣の物打ちでの捉え所、捉えた後の攻め所などを押さえるのが基本でしょう。

また二つ目は剣を自在に操れること。剣をあるべき場所にあるべきタイミングで運べること、物打ちに力を集中させること、物打ちに集中したままで自由にあやつることなどが基本でしょう。言葉で書くと簡単に見えますが、体術で考えると非常に難しいことが想像していただけるかと。(体術の際、自分の腕・体を思い通りの位置に動かし思い通りの力を出すことと同じですから。)

これら二つは片方だけできていても弱く、双方をともに鍛える必要があります。正しい型稽古(基本太刀、裏太刀など)を、厳密に行えれば理屈上は術理だけで無く正しい剣の操作法も身につく筈ですが非常に厳しい道のりです。

というのも、正しい型通りに剣を動かすには動かせなければならない筋肉が多々あるのですが、初心者の方はそのほとんどの筋肉が日常では使わない筋肉であるため凝り固まっているため動かないからです(私も未だ動かないですが)。私のイメージできている限りでは肩甲骨周り、脊髄周り、腎臓の辺りなどがありますが他にもまだまだあると思います。なのではじめから厳密に行おうすると、ほとんど剣を振れません。

では剣を振れる身体を作るにはどのようなことをすべきかと考えたとき、まず通常の柔軟体操をイメージしていただくとわかりやすいかと思います。通常の柔軟は呼吸に合わせて非常にゆっくり行うものと全体で練習前に行う体操の様にリズミカルに行うもの両者を実施することで柔らかい動きができる身体になると思います。前者だけだと稼働域は広いが動き出すとぎこちないし、後者だけだと稼働域が中々伸びないというふうに両者共に大事です。

剣術でも同様で、剣術に適した身体へ変化させるためには両者を必要とします。そして仕手受けが存在する剣術の型において後者は伸ばしやすいですが、前者(稼働域を広げる動き)を育てるには仕手受け両者に前者を育てることに対する高い意識が求められます。というのも、呼吸に合わせて行う柔軟がそうであるように、自分の剣術を行うために必要な様々な筋肉の稼動域を広げるには自分の呼吸に合わせてじっくり行う必要があります。そういう状態へ仕手を導いてやらないといけないことを考えると仕手以上に受け手に非常に高度なレベルが求められると思います。

そして私自身が受けをする場合は、そこまで高いレベルの受けはできるとは思わないので型稽古の中でその稽古を実施するよりも一人で素振りを行うことによって実施するほうが現実的ではないかと思います。ただしそういった受けが出来ないなりに、もし自身が受けの際に仕手のそういった能力(剣を自在に操れる能力)を伸ばすために気をつけることがあるとすると

1、しっかりと型稽古において、型だけでなく呼吸を見せてあげる。
2、自分が力(腕力に頼らない)の出し方に細心の注意を払う。

などがあげられ、これらを受けが注意することにより仕手をいい方向へ導くことが出来るのではないかと考えています。ただし人間一回の稽古で吸収できるものの数は限られているので、私が受けを行う場合、初めは型を覚えていただくことに専念するでしょう。

道具の効能1

道具といってしまうとまじめな方の怒りを買うかもしれませんがあえて。

合気道では杖や剣を練習の一環として用いている流派が多いように思います。これらの道具を用いることによる効能は何かを考えたときその中に以下のようなものがあると考えています。

それは自分の手元よりも遠くに力を意識すること並びに中心からの力の出し方を意識することです。言葉にしてみると全然違うように見えますが、この二つは身体の使い方という面から見るとほとんど同じことだと思います。

前者に関して、剣先に重みを出す場合と持ち手に近い場所に重みを出す場合を考えてみます。手首や肘を起点とした場合は手に近い場所に、そして肩や背中・臍を起点とした場合は剣先側に重みが出やすくなります。これはどこに出せるから凄いというわけではなく、思ったところに出せるようになることが大事だと思います。

剣や杖だけで意識することが難しい場合はこれらよりも少し重いものや軽いものを振ったほうが意識しやすいかもしれません。重いものをもって自由に振ることはかなり難しいと思いますのである場所(例えば正眼辺り)で維持するだけでかまいません。維持する訓練を続けるだけで背中・臍・丹田を用いて持つことを意識しやすくなっていくと思います。下手に重いものを振る訓練を実施すると、肘から先や肩から先の腕に頼ってしまうため背中や臍の意識をすることが難しくなるかと思いますので無理しないほうが良いでしょう。また軽いもの(例えばお箸)はただ振るだけなら誰でも簡単にできます。しかし剣を振っているときのように全身で振ることは相当難しいと思います。ためしに手首、肘、肩の関節をできる限り固定してみて振るのもいいかも知れません。ある程度振ることができるようになったらお箸の先っぽに重みを出したり、手元近くに重みを出したりという風にこんなことでも身体操作の訓練につながります。

 少し話は変わりますが合気道の技を実施する場合に、いろんなポイントがありますがその一つに掴まれた部分・接触した部分から如何にして自分の意識をはずすかということが挙げられます。もすこしわかりやすく言うと掴まれた部分・接触した部分にとらわれると、その付近が緊張してしまうと同時にその付近を動作の起点としてしてしまう傾向が人間には見られるため、技の受け側に仕手側の動きがばれやすくなってしまうためです。またその際、受けを無視して仕手だけの動きに関して観察したとしても一人でシャドーで動いているときに比べて技云々以前の問題で不自然な動きをしている傾向がみうけられるでしょう。というわけで掴まれた部分・接触した部分から意識をはずすということは技を行う上で重要な項目の一つといえます。(無視するわけではないですが。)そして意識をはずすと同時に動きの起点が遠ければ遠いほど受け手には動きが伝わりにくいため道具を用いた練習により意識を遠くにおくことは非常に有用といえます。例えば30~40cmの棒を剣を持つような形で両手で掴んだ状態にて四方投げなどの片手持ちの技を行ってみるのもいいでしょう。勿論長ものをもってその先を意識して行えば行うほど技自体のとっかかりはやりやすくなるのですが、長いと途中から動きの邪魔になると思いましたので。

そしていままで記述してきた遠くへの意識とは別に自分の中心への意識も道具を用いたほうが良い場合があります。先ほどの30~40cmの棒を掴んだ状態にて片手持ちで、手が中心からずれることが修正されることはもちろん、両手持ちでも例えば天地投げの崩しはじめのある部分まで棒を介在させることで中心で動くこと・両手のバランスを保つことが大事かを感じていただけるのではないかと思います。そして中心への意識が深まれば深まるほど、身体の末端ではなく中心に近い部位からの力を自然に使えるようになります。

もちろん最終的には道具を介在させること無く、身一つで何でもできるようになりたいとは思いますがあくまでも最終的にの話なのでどんなときでも柔軟に道具をもちいる頭をもつほうが上達・護身への近道かなと私は思っています。

片手取二教

片手取二教のやり方については、色々な考え方があることを前提として、いつも思っていることを。
普段の稽古の中だけだとなかなかいいたいこと全部を言えないですし、言葉足らずになってしまうこともあります。
ここで、自分のまとめも兼ねて書いてくことで皆さんと考え方を共有できたり、「へえ、そんな考え方もあるのか」と参考になったりするではと思います。

二教の理の一つとして、「手首を極める」という方法があります。多分これが一番オーソドックスなのですが、大きな難点もあると思います。ある程度、握力があれば大丈夫なのですが、相手の腕力との力差が大きい場合、特に女性が技をかける場合にどうしても物理的な限界がある場合があると思います。また普段の稽古では(きちんと受けることが前提なので)問題ないのですが、いわゆる「実戦」(この言葉は好きでないのでカッコつきですが)を口にする場合には相手の抵抗も考えなければいけません。
もし、試してみたいという人がいるのであれば次のように耐えてみるといいでしょう。
・他の技に切り替えられないように、二教の形ができあがった時に、
・決められている手首は自分の方へ引っ張るのではなく相手に強く押し付けるようにする(強いほどよい)
・肘は150度くらいに伸ばして肘にも力を入れる(ただし伸ばしきると危険)。
・可能であれば加えて決められている側の肩も相手に押し付けるようにする。
こうすると、技をかける方は引きながらかけることになります。きちんとかけられている手を押し付け続けていると、技は非常にかかりにくくなります。手首を極めるには実は受けの肘がある程度自由に動くことが条件となります。そのため、肘と肩に力を入れて押し付けられると「手首だけを極める」ことが困難になるのです。

繰り返しますが、合気道の稽古は約束稽古でお互いに上達することが目的なので、そんな稽古はよくありません。ただ、実際に自分がやっている技の効果は確認したいという気持ちもわかりはします。あくまで、以上の話は「実戦」を仮定するならの話です。

もう一つの二教の理として手首・肘・肩を支点として相手の体幹を固めて落とす、という方法が考えられると思います。こちらは「手首を極める=二教」という定義を立てるのであればそもそも二教ではない、と言われるのですが、ここではどちらが二教かどうかの議論はせずに、相手の手首を二教の形で極めて制するという目的の一方法として、手首ではなく体幹へのアクセスを考える方法もあること、力のない人にとっては前者よりもこちらの方が使いやすいのではないかな、と思っています。
ちなみにこちらのかけ方にとって一番困るのは「力を抜かれる」ことです。どちらの技にも弱点はあり、一長一短だと思っています。本当はどちらもできる方がよいのでしょうが。

ここまで読んでいるかどうかわかりませんが、「剣術と体術」について投稿お願いします。特にスキンさんと山鉄さん。

下半身の安定

 

今日の掃除メニューは倉庫の整理と、窓掃除。
夫婦と、手伝いをしない娘の変わりのルンバの3人? でどうにか年を越せそうな先行きとなりました。
といっても、まだまだ明日も大掃除で大変です。明日は手伝えよ、娘!

さて、名古屋至誠館では「柔らかい合気道」を目指している人が多いですが、下半身の強さは一定以上ある方がよいです
といっても、筋力での強さは年齢とともに低下していきますし、また維持も大変です。
特に膝や腰に不安を抱える人にとっては、筋力トレーニングはもろ刃の剣となりかねません
それに替わる「腰の重さ」が「重心を下げること」だと思います。

重心を下げる際に注意すべき点は
・重心は下げるが、足の自由は失わない
ということでしょう。
四股や呼吸法で重心を下げる鍛錬を続けると重心は下がるのですが、気をつけないと足が動かなくなってしまいます。
重心を下げて安定するには、物理的に腰を落として足裏から膝までを踏ん張るのが感覚的にも理解しやすいため、なれないうちはそうしがちです。
しかし足が動かない状態で重心を下げると、相手を崩してもその場所から動けないため、技をかける瞬間には力に頼ったりバランスを崩したりすることになります。
そこで、重心は下げつつも下半身は自由に動くようにすることを常に意識して稽古すべきということになります。

具体的には、丹田に意識を集中して体幹全体を塊だとイメージして丹田を起点に下に重心を落とします。
その際、自分の力で重心を下に落とすイメージよりは、丹田が地球に引っ張られるイメージで下に下がった方が意識を足に集中しやすいと思います。
つまり、体幹は勝手に下に引っ張られて安定するが、自分の意識は足まで地面に吸い付かないように、足を自由にする。
言いかえれば、重心の位置を低い地点で維持したまま膝から下が動かせるようにすることです。

重力にしたがって重心を下げることは筋力に頼らないため、筋力のない人でも可能です。
また足を自由にすることで、重心が下がる際にべた足となって膝や足に過剰な負荷が掛らないようにでき、無理のない強い下半身を作ることができるのではないでしょうか。

受けについて

先日指導時に受けについて説明することがあったので、一度書いてみようと思いました。

合気道の受けには様々な形があります。片手持ち、両手持ち、諸手持ち、交差持ち、正面打ち、横面打ち、上段突き、中段突きなど。これら一つ一つの動作に関しても巧拙があります。

例えば持ちに関して言えば、受けではなく仕手のつもりで片手や両手を取る場合、相手を持った瞬間(触れた瞬間というより掌握した瞬間でしょうか)に相手を崩すように身体を使わなければなりません。その為には仕手でもたせる際に注意していることを受けで持つ際にも注意する必要があります。(仕手の際に肘や肩に余計な力みがあるといわれている人は、受けの時も同様のことが言える場合が多いと思います。)

また打ちに関して言えば、例えば胸倉を掴んできた相手を手刀にて切り落とす動きの際に脇・肘を締めて肩から先の余計な力を抜くというような注意をしているとしたら、それは受けの際に正面打ちや横面打ちにおいて同じ注意ができるはずです。

仕手の際に漫然と仕手を行っていても成長しにくいのと同様に受けの際も漫然と行っていては成長しにくいものだと思います。

また以降は指導を行えるレベル(2級以上)に関してよく見られる傾向なので記載します。

上級者が全力で相手に打ち込んだり、全力で掴みにいくと低級者は型通りに技をかけることは基本的にはできないので練習にならなくなります。しかしだからといって例えば7割りぐらいの力しか出さないということを続けていると、そのうち出したくても7割の力しか出せなくなります。

私の場合を申しますと全力が出せる間合いや体を維持しつつ、片手持ちの場合なら相手を掌握する瞬間に相手の腰の力に合わせて手加減する・正面打ちの場合なら意識して起こりを見やすくするとか当たった瞬間に威力を調整するなどを行っています。また自分と比べて型通りに動けていない方に対しては少しでも正しい型どおりに動けるように手助けする方向性を示した受けをするよう心がけております。そのような方向性を受けを通じて全て伝えきれるのが最良だとは思うのですが足りない部分が生じるため口頭にて説明を補足することが多々あります。そしてがんさんなど一部の自分より格上の方や同等以上の相手に対しては当てるつもりで打ちにいく・崩すつもりで持ちにいくという練習をさせていただいています。(自分に気が入りきっておらず全力を出し切れていないことも多々ありますが。)

正面打ちの際に起こりを見易くすると書きましたように、攻撃というものは威力や重さと同じかそれ以上に如何に相手に気づかれずに実施するかということが大事ですので相手に反応されないように持ちにいく・相手に起こりをとらえられないように打ちにいくということを意識することが大事だと思います。そしてこれは意識して練習しない限りは身につかないのではないかとも思っています。

起こりを見にくくするということは仕手のときも大事なことであり、仕手のときも受けのときも注意点は似たようなものですのでこれまた仕手の際の上達につながります。

 このように受けは仕手と同じくらい大事だと私は考えています。

ちなみに初心者は技の流れがわかっていない場合が多いため、思い通りに技がかからないことがあるかと思います。しかしこういった場合にこそ自分の合気・呼吸の力が試される時だと思いますので白帯の子供相手こそ一番の練習相手と考え、丁寧な技を気をつけることで他武道経験者とも合気・呼吸を合わせることができるようになることにつながると思います。

脱力の稽古法

21日に午後の稽古でおこなった脱力稽古法について、江戸川橋丈彦先生のやったことを私なりの理解でまとめておきます。
でないと、次回の稽古で「壁に向かって話をするNoriさん」と「Noriさんに言われて壁に向かって話をするリアクションHさんと日拳T君」が現れて相当異様な光景になりそうなので。

1.
当たり前のことですが、普通人は自分の足で立ちます。
そしてこれも当たり前のことですが、地球には重力というものが存在します。
この二つを合わせると、出てくる結論は
人は自分にかかる重力を自分の足で支えている
ということです。

2.
次に自分が支えられる重さ、について考えます。
例えば体重60kgの男性と30kgの重さの荷物について考えます。
この荷物が「倒れかけている扉」の場合と「濡らしてはいけない段ボール箱」の場合を考えてみます。
荷物が扉の場合であればそれを支えればよいので30kgは支えられない重さではないでしょう。しかしずっと支えるのは非常に困難です。
そしてそれが段ボール箱の場合常に宙に浮かして持っていなければならないので30kgは担いででもいない限り「持てない重さ」となります。

3.
では30kgの重さの荷物が何か、ですが30kgの重さの荷物であれば「子ども」40kgの重さの荷物であれば「女性」と読み替えることができます。
すなわち、子どもの体重でさえも大の成人男性は持ち上げることはもちろん支え続けることも困難なのです。

4.
この理屈から言えば、子どもであっても自分の体重を全部相手に預けてしまえば、「支え続けれれない=倒れる」すなわち大人を倒すことができるはずなのです。
以外にも軽いと思われている子どもの体重は、実際には充分に重いものであり、それをうまく利用すれば大人も崩せるのです。
その際、技をかける方としてはできる限り「支える」状態よりも「持ち上げている」状態に相手を近づけた方がより効果的になります。

5.
その際特に大人において問題になるのが、「全体重を相手に預けられないこと」と「相手に逃げられてしまう」ことです。
人間にとって安定感がなくなることは非常に不安な要素です。そのため、自分の体重を全部相手に預けるということはなかなかできません。つい30~50パーセントくらいは自分の足に体重を残してしまいます。その分相手にかかる負担は小さくなるので耐えられてしまうことになります。また体重を預けられる方は、そんなのは御免こうむりたいので、相手がググッと体重をかけてきたら逃げ出します。

6.
そこで先日の稽古でもやったように、「しっかりと自分の全体重を相手に預ける」ことと「相手に体重を預けていることを悟られない」ための技術が重要になってくるわけです。
稽古でもやったように、相手に気が付かれないようにしながら自分の重心の位置をコントロールして全体重を相手に預け、そこから相手の上体を「支える」から「持ち上げる」状態へ移行することで負荷を一気に増加させ崩して投げるわけです。
実際の動きについてはかなり言葉で言い表すことが難しいので、分けて書くことにします。

土曜日にやった稽古はそんな意味の稽古です。多分

突きの種類 -Eさんより-

例によって「これはいい」と思ったので、投稿にも上げさせてもらいました。
投稿だと後で検索できるので。

私の考えでは、
逆突き:軽い攻撃・打撃・居付き多い・移動攻撃難
順突き:重い攻撃・浸透勁・居付き少ない・移動攻撃可
という特徴があると思います。

殴りかかってくる敵に素早く対応する必要があるので、
打撃系は逆突きが多いと思いますが、
遠ざかって行く敵への打撃は逆突きでは届きません。
同じ武術内だけの勝負で有効な技なので、
強い印象があると思います。
 
古武術系の打ち技は、甲冑などの重武装で発展
してきましたので、軽い打撃技は無いように思います。
そもそも重武装なので早く動けないのです。
 
合気道は、居付きを起こさず、移動しながら技を
成立させる必要がありますので、順突きの姿勢
である必要があると考えてます。

動きと形

合気道の動き、いや多分柔術の動きは白帯の頃にならうものと黒帯になってずっと稽古を続けているものとで違いはないと思います。
同じように足を動かして、同じように手を動かす。
でもなぜか技のかかり方が違う。
その「同じだけれど違う」を体得していくのがとても難しい。そして楽しい。

その同じ動きで違う効果を体現していくために、ある一定の段階からはイメージを重視した稽古が大切になると思います。
その意味で、先日の稽古会は道場の有段者の人たちにとてもよい影響を与えてくれたと思っています。
感謝しています。

イメージするといっても、抽象的なものは描きづらい。そこでいろいろな工夫がされるわけですが、動きを具体的な形でイメージするのはすごくわかりやすいと思います。
円筒や円柱、三角錐や円錐。個人的には鼓や楕円なんてのもありかと思います。
転換からの入り身投げを円筒でイメージする。すごくわかりやすいです。
きちんとした説明を受けてきたのですから、悩みながらゆっくりと咀嚼していけばきっと糧になると思います。

そんな稽古を見ているとおもわずにんまりしてしまうのです。
別に変な意味はないですよNoriさん。

ちなみに今日の稽古を見ているとNoriさんとリアクションHさんのマイブームは三角錐、Mightyさんは円筒かな。副館長代理補佐さんは仕事かな。
私は流水柱とくっつく波紋。流水柱を重力にとらわれず流してみたいです。

流水柱について

芋焼酎のおいしい季節になりました。
表題について詳しくはNoriさんとMightyさんに聞いてください。
以下は私見です。

「水」の意味するところは固体でなく液体であることだと思います。
流水柱という言葉からイメージできることはまっすぐに流れ落ちる水だと考えます。
で、まっすぐに流れ落ちる水と言えば滝が想像しやすいでしょう。

ここで注意。
滝というと流れ落ちる水の力強さが印象的であるため、勢いの強さと誤解する人がいます。
でも、単に勢いの強さだけなら別に水に例える必要はありません。引き倒す力強いものといえば「クレーン」でも構わないでしょう。
なぜ「水」なのか。
「水は方円の器にしたがう」という言葉があるように、水自身は非常に柔軟に変化します。
水が一定の形をもって動くのは氷になった時だけです。
だから、身体を動かす際に自分から力をかけて引っ張るような動きをするのは「水」の動きとは言えません。
水が持つのはその質量としての重さのみ。しかもそれはまっすぐに鉛直方向にかかるのみです。
水が流れ落ちる際にその方向を変えるのであれば、それは水そのものの動きや性質によるものではなく、水を矯正(強制)する外部から力によるものです。その分の力は当然に本来必要な相手を崩すのに必要不可欠な力以上の「不要な」力だと考えます。
そうした力は可能な限り0にすべきであり、最初から鉛直方向以外にそういう強制力を意識する動きは、ここでいう「流水柱」のイメージとは全く異なるものかと思います。

さて流水柱において大切なのは、鉛直方向以外の脱力です。ただ、どうしても鉛直方向にのみ力をかけるためには自分の身体の位置を入れ替えたり、力みのない姿勢で動き始めることが大切です。その点を意識した稽古ができるとよいのではないかと思います。
もう一つ以外に意識しないのが「スピード」です。
水は一定の落差以上において終端速度になります。重力加速度で無限に加速するわけではなく、一定以上の速度にはなりません。だから、流水柱における負荷も一定の速度によってかけられるべきだと考えます。滝から落ちる水の圧力はとても大きく、当たるものを押し流しますが、その速度には限りがあります。フレクタルというわけではありませんが、自然の中に存在する理は物理法則にもかなうものであり、武道における動作においても参考になるのではないかと思います。

ちょっと抽象的なことも書きましたが、具体的には自由稽古の時にでもやりましょう。

横面打ちの入り

今日は副官長代理補佐主任代行とスーパーリアクションHさんが、自由稽古の時に横面打ちに対する入身を稽古していました。
話の流れでは、打撃に対する捌きから始まり、間合いの取り方の話や相手の腕・身体の制し方の話になったようです。
SRAHさんによれば「横面打ちを踏み込んで止めようとすると自分の手と相手の上腕がぶつかってベチンととても痛そうな音がする」ので、どうしたらそれを直せるかがいつの間にかの課題(多分)になっていました。

私見によれば、相手の攻撃を止める際に強く腕通しがぶつかるのは腕を出す際に脇があいているからだと思います。もう少し精確に述べれば、脇があいた状態で相手の攻撃を止めようとした場合どうしても力を入れなければならないので、互いの力が正面からぶつかりあって、にぶい音や痛そうな音がするわけです。

腕に力を入れると脇が空きます。脇が空くとその分不安定になるので、力を入れてバランスを取るようにします。この形は一見すると手刀がきちんと立っているのでちゃんと受けているような気がしますが、衝突に際しての物理的衝撃は大きい=力と力がぶつかり合っている、ことになるので相手を制した後技に入るのに改めて脱力しなけれあらず時間と力のロスが大きいです。

結局はロスなく動けるように入った方が、あとへの連絡もスムーズで効率的ではないかと思います。そのためには、手を半円弧に動かすことが大切なのですが、これがなかなか難しいですね。

この手のデリケートな動きの練習はともかく、感覚を大切にして稽古を反復するしかありません。せっかく稽古したのに、他の人に付き合わされてそれまで積み重ねた間隔がリセットされてしまう、ということはよくあります。
繰り返し述べていることですが、いい形での反復こそが上達への不可欠な要素だと思います。がばりましょう!

身体の大小についての考え方

名古屋至誠館ができた当時、大人は私も含めて全体に小柄でした。
今は、大柄あるいはがっしりした大人も随分増えました。
自分とにたような身長の人と稽古するのは、感覚的にもわかりやすいことが多く、やりやすいと思います。

けれども、自分と身長や体格がずいぶんと異なる人を相手にするのは大変だと思います。
初心者は、身体の小さな人が身体の大きな人に技をかけることは難しいが身体の大きい人が身体の小さい人に技をかけるのは簡単なので、身体の小さい方が不利だと考えがちです。それは違うと思います。
そんな風に考えてしまうのは、一般的に身体の大きい人は身体の小さい人に比べて相対的に力が強いため、力任せに技をかけても小さい人を投げたり決めたりすることができるからです。いいかえれば、大きさの優位を感じるのは技でなく力で相手を制しているからにすぎないのではないでしょうか。
だから、一定以上のレベルの人を相手にするようになると、相手より体が大きくても無理矢理投げることはできなくなります。力でかけている限りは早晩限界が来ると思います。

伝説の達人には小柄な人がたくさんいます。これは小柄な方が柔術に向いているというわけではなく、小柄な人は力任せに相手を制することができないので創意工夫したり、徹底した修練を積むからだと思います。そう考えると、身体が大きいということは増上慢に陥るリスクも大きいわけで、身体の大きい方が得ということはないと思います。

一方で身体の小さい人が身体の大きい人に技をかけられないのは、自分の身体的な利に気が付いていないからだと考えます。最初にも述べましたが、人は何も意識しない状態では自分自身の身長や体重を基準として行動します。身長の高い人は、日常のすべての行動を高い身長で行っています。そのため、低い位置で身体を動かすことに慣れていません。ですから、身長の低い人の高さに付き合わされると、バランスを崩してしまいます。

大切なのは、相手に惑わされずに自分の身体的な利を生かすこと。そのためには、身長の差は互いに平等に有利不利に働くのであり、一方的な不利益はないことを何よりも心に刻み込んで動揺しないこと、その上で普段の稽古から自分の身体感覚をしっかり磨くようにすること、が大切だと思います。
特に、身体感覚を磨く稽古についてはまた改めて述べてみたいと思います。

体転換について

最近の稽古で体転換がプチブームなので、体転換について私見を少し。
転換は相手の攻撃を捌く(流す)ことが目的ですが、その点についてもう少し突っ込んで考えてみます。
相手の攻撃を捌くということは、相手の攻撃力をそぐわけですが、それだけではありません。その後に技をかけることを前提として転換することから、転換の目的は単に相手の攻撃を捌くだけでは物足らず、技をかけやすい位置に相手を誘導しながら攻撃力を削ぐ、という二つの動作を同時にする必要があります。
その際、捌き終わった時点で自分の力を使ってしまっていては、その後に技をかける力が残っていません。大切なのは自分の力を残したまま相手を制することだと思います。
そのためには、転換において自分の力を極力使わないようにすることですが、それにはどうしたらよいかが問題になります。

力を使わないということは実は力を使えないということに通じるのではないかと思います。身体を回転させる際に、身体の中心軸を動かす感覚で回転するのがよいのではないかと考えます。軸というのは非常に細い線(あるいは細い棒)なので、それを回すのに力は必要ありません(別の言い方をすれば力を使うことはできません)。自分の身体の中心に可能な限り細い軸を意識してそれを回す。
ただ、物理的に相手と接しているのは手や腕なので、その部位も動かさなければいけない。力としては軸だけを動かし、動いた軸の運動エネルギーが身体の外側に伝わって相手に物理的にはたらく、というのが一つの理想ではないかと思います。軸の回転運動が次第に外側に伝わる、その軌跡を鳥瞰すると螺旋の動きになるのだと思います。
軸のみを動かすときの意識としては、足特に腿の内側に意識をおいてそれぞれの足が内回りに回るように意識しながら二つの回転のエネルギーを腰を通る中心軸に伝えるように意識するとよいと思います。二つの回転の意識は中心に向かう力の意識となり、軸を回転する力が外側に拡散しないように働くはずです。

反対に相手との接点である身体の外側から動き出すと、身体全体が一体化して動くためどうしても身体全体と動かすエネルギーが必要となります。
また、転換終了後に手首やひざに力が入っている(緊張している)のも、やはりエネルギーロスであると思います。
方法や考え方・理論は人それぞれだと思いますが、できるだけ余分な力を使わない、という点ではみんな考えが一致するのではないでしょうか。

四股と円かきについて

四股とはもちろんただの足腰の鍛錬法というものにとどまらないと思います。しかし、四股を単なる足腰の鍛錬法でないものに昇華する為には様々な注意事項があります。誤りもあるとは思いますが私が留意している点を述べますと

①上半身はできる限り脱力する。
②地面を足で踏む際になるべく膝・太もも・ふくらはぎ・足首などに力を入れないようにする。(膝を痛めることにつながります。)
③足を上げる際に膝が内向きにねじれこまないようにする。
④腰の筋肉が張らない様気をつける。(腰を痛めることにつながります。)
⑤一回一回腹式呼吸を実施することを気をつける。
⑥足の内側の付け根の筋肉を使うことを意識する。(足の外側、つまりは直立している際の前面の筋肉はなるべく使わない。)
⑦勢いでやらない。(ゆっくりやってもバランスが維持できるよう常に体のバランスを意識する。)

次に円かきについて述べます。円かきとは基本的には股関節の柔軟と背中の柔軟、そして臍下丹田への集中という三つのことを同時に実施しようとしている動作だと思います。ただしこの円かきは無理して行うと非常に膝を痛めやすいと思いますので各人無理ない程度に行うほうがよいかと思います。(大きく膝を痛めたことがある身として)
あくまでも四股の予備(足腰がつけば・臍下丹田への集中力が増せば・股関節が柔軟になれば円かき自体を実施しなくても円かきへの耐久性はまします。)ならびに四股によって身体作りが適正になされているかの確認みたいな形程度で用いられるほうが安全だと思います。くれぐれも無理はしないことが大事です。

脱力について

振られたので早速投稿してみます。が、もちろん正しいことを述べれているわけではなくただ単に私自身の考えということなので適当に読み流してください。

脱力とはもちろん皆さんがご存知のとおりただ単に全身の力を抜くということではありません。わかりにくいかもしれませんが、直立姿勢における状況に対して少しでもわかりやすく述べるとすると直立した姿勢を保ちつつ意識できるすべての筋肉をできる限り弛緩させると言えばいいでしょうか。

どういうことかといいますと、たとえば直立姿勢において首・肩・腰・胸・鳩尾・肘・手首・足首・膝・太もも・ふくらはぎなどの箇所を意識すればもう少し弛緩できるとするならば、その弛緩できた分は無駄な力だといえます。難しい表現でよく言われるのは骨格で立つとも言われています。

弛緩した状態で動く練習として様々な練習方法があると思いますが私が実践しているものを述べますと

①お風呂の中で浮力を動きのきっかけとして指先や腕を動かす。

②寝転んだ状態にて腕を上げ下げしてみる。

③片方の腕はできる限り脱力し、もう一方の腕で脱力した手の小指を持っていろいろと動かしてみる。

④脱力した腕の指先を他の人にいろいろ動かしてもらって、その動きに無理なく身体がついていくようにする。

⑤剣の素振りや体術のシャドーをする際に意識できる筋肉すべてにできる限り力が入らないよう改善していく。

⑥できる限り脱力した状態になるために、一日10分ほど正座して呼吸法を行う。

などがあります。

よく体幹の筋肉を使うとか肩甲骨から腕を動かすとか、屈筋ではなく伸筋を使うとかいろいろ言われますが技の流れの中でそれらを意識することは非常に難しいと思います。そして、逆に技の流れの中であまり使うべきではない筋肉を使っているかどうかのほうがわかりやすいと思います。ですので使うべき筋肉を意識するのではなく使ってはいけない筋肉を脱力することで結果的につかうべき筋肉が使われるようになるというのが、無駄な力を抜きなさいという言葉の本当に意味するところだと私は思っています。

そして無駄な力が抜けた際に得られるものを挙げてみますと

①腕力の強い相手にも、腕力による抵抗がされにくい(受けが仕手に対して抵抗するためには受けが力を伝える場所を見つけなければなりません。しかし無駄な力が抜けていて体幹近くにしか入っていなければ、腕・肘・肩・背中などに対して受けは力を伝える場所が見つけられないと同時に体幹までは遠すぎて伝えられないため結果として抵抗できなくなります。ゆえにもしも仕手として技を実施している際に、肘に投げている感触・肩に押し倒している感触などを感じているとしたらそれはそこに無駄な力が入っていると同時にもしも受けがしてよりも強い力で押し返してきた場合にはかからない技だという事を示しています。)

 

②静止した状態からでも技の起点を受けに悟られにくい。(相手と自分を一本の棒でつないだ場合と一本のたるんだ縄でつないだ状態を想像してみてください。一本の棒でつないだ場合は相手に自分の動きを悟られやすいと思いますが、一本の縄でつないだ場合に相手が自分の動きを悟ることは難しいと思います。同様に無駄な力が入っているとその力みを起点として受けは仕手の動きを察しやすいですが、無駄な力が抜けていると極論では受けは実際に崩した力が伝わった瞬間まで仕手の動きを感じることはできなくなります。止まっているものを動かないようにすることと、動き始めたものを止めることは同じ運動量だとしても難易度に天と地の差が生まれると思います。)

③受けが強くなる。(無駄な力が抜けていると仕手のちょっとした動きを体幹近くで感じれるようになります。そのため無駄な力が入っている仕手相手だと先回りさえもできます。)

以上のことから脱力の程度の巧拙がそのまま合気道の実力のひとつに直結すると思います。一番わかりやすいのはすわりの呼吸ですが、脱力程度が上の方にガチでかけることは上記のような理屈から非常に難しいです。

 

 

 

 

力の抜き入れ01

今日の自由稽古で話題になっていたことについて。

技において力を入れることは悪いわけではありません
最近の稽古の主流で脱力を意識しているため、力を入れること=間違い と思ってしまいがちですが、それは違うと思います。
大切なのは、力を入れるのであれば効率的に力を入れる必要がある、ということです。

例えば技の最初から力を入れた場合、相手を崩したり制したりするのにほとんどの力を使ってしまい、最後には投げる余力がなくなってしまいます。
しかし、最初の崩しの部分で力を使わなければ、途中で相手を制したり投げるために力を入れてもまだ十分余力が残っています。
脱力して技をかける場合、相手が抵抗するとなれないうちは踏んばられてしまいます(それは稽古としては間違いなのですが、技としてはそういう場面も想定できるので)。そこで必要に応じて力を入れて相手を制すれば、脱力が不十分でも相手を投げることができます。
もちろん、理想は極力力を使わないことだと思いますが、場合によっては相手の抵抗を制する必要がある場面もあるかもしれません。
そんなときに、必要な力が入れられるようしっかりと普段から力を入れない稽古をするべきだと思います。

もちろん、一番目指すのは最後まで力を使わない技なんですが・・・