今日は朝一で起きて東京の道場の稽古&懇親会に。
なんといっても8月末なので。
東京の道場はほとんどが同じ大学のOBなので、とても結束が固いです。
年齢的にも上から下まで20年位がつながっています。一大学だけはだと閉鎖的な雰囲気になりがちですが、みんな気さくでそんなことはありません。仲間も増えてとても活気があります。
心から信頼できる仲間と一緒に稽古して楽しく語りあえるのは、とても楽しいです。この夏は合宿ともあわせて、うちの道場はとても有意義な時間を過ごすことができました。
今日みんなとも話をしましたが、楽しくなるのはまだまだこれから!
今後も私と名古屋至誠館をよろしくお願いいたします。
今日の自由稽古で話題になっていたことについて。
技において力を入れることは悪いわけではありません。
最近の稽古の主流で脱力を意識しているため、力を入れること=間違い と思ってしまいがちですが、それは違うと思います。
大切なのは、力を入れるのであれば効率的に力を入れる必要がある、ということです。
例えば技の最初から力を入れた場合、相手を崩したり制したりするのにほとんどの力を使ってしまい、最後には投げる余力がなくなってしまいます。
しかし、最初の崩しの部分で力を使わなければ、途中で相手を制したり投げるために力を入れてもまだ十分余力が残っています。
脱力して技をかける場合、相手が抵抗するとなれないうちは踏んばられてしまいます(それは稽古としては間違いなのですが、技としてはそういう場面も想定できるので)。そこで必要に応じて力を入れて相手を制すれば、脱力が不十分でも相手を投げることができます。
もちろん、理想は極力力を使わないことだと思いますが、場合によっては相手の抵抗を制する必要がある場面もあるかもしれません。
そんなときに、必要な力が入れられるようしっかりと普段から力を入れない稽古をするべきだと思います。
もちろん、一番目指すのは最後まで力を使わない技なんですが・・・
相変わらず暑い日が続きますが、空調のおかげで熱中症を気にせず稽古できます。
なので、いつも通りにしっかりと四股と転換をやりました。
白帯の子達もすっかり動作が身体に沁みこんだような気がします。
途中一教をやっていた際に、間違えて相手の後ろに踏み込んでしまうと、自然に身体が転換して裏に入ってしまう子がいました。
その姿を見て、普段の稽古が身体になじんでいることが嬉しくなりました。
やはり、基本の反復は大切だと痛感しました。
何より、延々と四股や転換をやっても文句を言わない(どころか自由稽古の時間もさらに転換の練習をする子もいる)雰囲気ができていることはありがたい限りです。
この環境が続くよう頑張りたいものです。
今日はキャリアの長い子どもたちに技をやってもらいました。
それぞれの得意技と個性が分かって面白いです。
もう一つ驚いたのはみんな稽古慣れしていて、きちんと場の雰囲気を読んで技を選んでいたことです。
うーん、さすが上級者? 大人も見習いましょう。
ということで、いつもとはちょっと違ったけれど有意義な稽古でした。
ちなみに今日のは丸投げではありません!!!
合気道だけではないと思いますが、柔術ではかなり特徴的な筋肉と関節の使い方をします。
筋肉全体を一つにして動かしたり、一部分だけを緊張させ残りを弛緩させたり、表層部分と骨の近くの動きを変えてみたり。
普段使う使い方とは全く別の身体(筋肉)の使い方をすることが柔術の特徴かと思います。
かなり内面的であり、理論的な稽古で、また「地味」でもあります。
どれも難しいのですが、研究し稽古することはとても面白いです。
私自身はこうした「筋肉の動き」を意識する稽古がとても好きです。
普段の稽古ではなかなかできませんが。
今年のお盆は稽古三昧。
ということで、今日もスポーツセンターへ稽古に。
今日は先日の講習会でもやった「相手を制する」をテーマに稽古しました。
自分にとって優位な位置で相手に攻撃させる。
最初はしっかりと正中線と重心を維持した状態で相手につかませ、感覚を感じ取りながら稽古しました。
次に先ほどの「優位な体勢」を維持したまま誘いをかけてつかませます。
大切なのは優位な体勢を維持し続けることで、相手にかけることを意識すると本来の目的である「負けない体」への意識がおろそかになってしまうのが難しいです。
静と動の稽古をバランスよく行うことが大切で、きちんと稽古できれば一人稽古も可能になると考えます。
そういう意味では、いい稽古ができたのではないかな。
今日はお盆でスポーツセンターが空いていたので、個人稽古に。
体術をやりたいと思っていたのですが、話の流れで剣術に。
普段なかなか剣術をやれないので、こういう機会を大切にしよう、ということで「剣の振り方」を稽古することにしました。
剣の振り方で気を付けるべきだと思うのは、切っ先がぶれないようにすることです。
そのためには、体全体を一体化して動かすことが必要となります。
一番簡単なのは、肩に力をいれて腕全体を固めて振ること。
が、これは論外なので、腰を遣いながら腕と腰と足を一緒に動かすことの稽古をしました。
身体の使い方が一番わかるように「袈裟切り」をその場で行う形に。
その点は大人だけあって、自分の身体と対話しながら黙々と剣を振ります。
ときどき、剣を合わせたりして、実際に切れているかどうかを確かめながら、延々と1時間半は袈裟切りを続けました。
こんな稽古もいいですね。
私自身剣を20年やっていますが、なかなか納得した形で剣を振ることはできません。
剣を握って2~3年では全然無理なのは当たり前なので、今日できなかった人も心配しないで稽古を続けて下さい。
名古屋至誠館の特徴の一つに「親子で一緒に稽古する」楽しさ、があると思います。
現在親子そろって稽古している人が全部で4組。
親子で稽古することの一番の意義は「共通の経験をすること」です。
親子と言っても学校に入れば普段の生活は別々の時間が格段に増えます。
また、子どもは親の知らない社会を周囲に築いていきます。
親は子どもの話を一生懸命聞くのですが、どうしてもやはり子どもと同じ体験をしているわけではないので、共感できる範囲に限りがあります。
こうした問題はどんな家庭にも必ずある悩みで、もし親子で何らかの共通の経験が存在すれば、相互理解の大きな助けになると考えます。
そして最近ではこの「共通体験」を重視した教育プログラムもあります。
たとえば、幼児向けの教室などでは親子で一緒に参加することで、子どもが安心して楽しく学べることをうまく活用しているところがたくさんあります。
ただ、この「親子で一緒に」の難しいところは子どもが成長するにつれてだんだん親にとって「子どもと一緒のこと」をやるのがきつくなります。
子どもの成長は著しいですし、また学年が上がるにつれて高度な内容の習い事を望むようになります。
そうすると、子どもより二回り以上年上の親にとっては、新しくはじめた習い事を続けていくのは大変です。
そんな中で合気道は親子ではじめるのにとてもよいものだと思います。
以前にも書きましたが、大人にとっては長い間続けることができる武道であり、また子どもにとってはいくらでも上達することができる。
それぞれが異なったペースとスタイルで稽古しながら、合気道という共通の武道について考え、共感しあうことができる。
もちろん、子どもの方の上達が早く一旦は親がおいて行かれる感じはしますが、柔術という武道の性質上単に体で動いているだけではなかなか上達できません。
頭で考えることも大きなウエイトを占めるため、身体的には後れをとっても親は子どもと違った経路を通って上達します。
さらに、上達するにしたがってだんだん高度な(複雑な)ことをやったり考えたりしなくてはならないので、少しずつ上達速度は落ちます(個人的にはそれと反比例して合気道が面白く感じるようになると思っていますが)。そのため、親子の差が縮まったり、開いたりしながら糸を編むように進歩することは、苦労という点でも親子の共感において魅力的なものではないかと思います。
何より一番素晴らしいと思うのは、合気道は年をとるまで永く永くやれることです。子どもにとって大人になっても続けられるような環境で稽古ができれば、とても長い時間を通じて親子で共通の経験と感性を共有することができるのではないかと思います。
一緒に稽古されている親の皆さん、どうですか?
週末を利用して母校の大学の合宿に行ってきました。
半分夏休みも兼ねて、行きは差入れを仕入れつつのんびりと宿へ。
学生も中日で休みのため、宿について先生と久しぶりにゆっくりお話することができました。
で、夕涼みがてらビールを飲んで、参加初日はまさにのんびりムード。
さて翌日。合宿地は長野と新潟の県境なのですが…予想に反してまったく涼しくない。道場は風が通らないため ほとんど蒸し風呂。
稽古していない状態で正座しているだけれも、汗があふれ出てきます。ましてや、稽古していると意識がもうろうとしてきます。
気合を入れて稽古前から稽古し始めたら、あっという間に汗だく。ともかく暑いの一言に尽きます。
午前の稽古は昨日行われた昇級審査の反省点を一通り。二教から五教まで一通りと袈裟斬りと八方切り。
いつもと違って、ただの稽古者としてフル参加\(^^)/
毎回一年生がついて来てくれるのですが、一緒に上級生もいるのでいつもと違って「教えるぞ」という感じよりも一緒に稽古するという形で稽古ができました。
先生の技を拝見することができる数少ない機会なので、見取りの時が一番集中します。
普段なら稽古後も学生と稽古するのですが、今回は「無理!」
昼食も、ようやく素麺を流し込む程度しか食べられず。うーん、いまいち。
午後の稽古では、半身半立の四方投げ、片手取りの絞め技、片手両手取りの十字投げ、胸持ちの合掌なげ、胸持ちの肘決、柳落とし、杖をつかっての鹿島を2本と座りの呼吸でした。
先生の好きな技の連続で楽しい稽古ができました。うちでも今週やりますね。
いつものことなのですが、合宿の最終日には多くのOBがかけつけて総勢80名を超える(もっと多かったような気がするのですが)大人数での稽古となります。もうぎゅうぎゅう。でも、久しぶりにあうOBと稽古するのもとても楽しいです。
今回は一年生が積極的に来てくれたため、一年生ともともたくさん稽古出来ました。
また自分の体が随分動くようになった事を確認出来ました。昨年の合宿では「もっと稽古しなければ」という課題をいくつか感じました。そのうち幾つかは課題にしていたこともでき、またいつくつかは本来の自分の動きに戻って問題ないことを確認できました。一応上達はしているようです。ちょっと安心。
懇親会では、今回は参加できなかった相棒の分も樽酒の会の責任者として挑むつもりだったのですが、稽古で軽い熱中症気味になりあまりお酒は飲めませんでした。
でも、例年通り樽酒はおいしく、学生にもお米の文化の素晴らしさを少しアピールすることができてよかったです。
私がこんな風に楽しんで来れるのも、留守をしっかり守ってくださる皆さんのおかげです。
道場の稽古を担当してくれたノリさん、ありがとうございました。(^o^)v
土産話はたくさんありますので、楽しみにして下さい。
多分その3です。
なんと、HP開設半年でカウントが2万超えました。ありがとうございます!
HPに訪問して下さる方が増えるにつれて、道場を訪れてくれる方も増えました。
本当にうれしい限りです。ありがとうございます。
名古屋至誠館はこれからも、「いつでも気楽に稽古に来られる道場」目指して頑張ります。
HPを訪れてくださったみなさん。
稽古でも、見学でも、体験でも、いつでも気楽に稽古に参加して下さいね!
今週は「相手の重心を制する」ことについていろいろと考えていました。
本当にいろいろと考えることができる、やりがいのあるテーマだと思います。
重心を制する、と一口に言っても単純な動作ではないと思います。
ということで、少しずつ考えてみようかと思います。
仮に相手の重心を制することに成功したとしても、重心を制しただけではまだ相手の力は死んでいません。
特に相手の膂力が強靭であれば、力が拮抗する状態が続きます(もちろん完璧に相手を制すれば力は不要と思いますが、そうであっても同じ効果を生むためより楽に技をかけられるという点で以下に述べるように思います)。
で、(相手の重心を制しているとしても)相手と拮抗している状態から不要な力をかければ、せっかく優位に立った体制も再度逆転してしまいます。
そこで、正中線と軸を中心に自分の体を全体で一体化した上で、接触点に意識を集中してその点に重心を重ねて力をかけるようにすれば、腕力や膂力でなく自分の体重で相手を崩すことができると思います。
体重による力積は体格的にかなり不利な場合であっても腕力や握力に比べればかなり勝っていることは明らかです。
問題はどの時点で、自身の身体の一体化と接触点への意識の集中を行うかだと思いますが、少なくとも一体化については静的な一体化と動的な一体化があると考えます。
Facebookはやっているものの、時たましか開きません。
で、今日たまたま開いてみたらすごくびっくり\(◎o◎)/!しました。
今から20年近く前に、東京の予備校(塾)で講師をやっていたのですが、その時の教え子がFacebookで私を見つけて連絡をくれました。
私のプロフィールから当時の経歴を引っ張り出すのはほぼ不可能なはずで、本当に驚きました。
以前Facebookのことを疑問視するコメントを書きましたが、今日のはとても嬉しい驚きでした。
それにしても、20年たっても私を覚えていてくれた彼女に本当に感謝です。
人の縁は不思議ですね。
岐阜城の話に続いて今回は織田信長のちょっとマイナーな話です。
織田信長といえば、戦国の英雄(あるいは梟雄)としてその足跡は誰でも知っています。
が、その破天荒とも劇的ともいえる人生ゆえか、彼が発言した言葉の多くが周囲の人や後世の人につよい印象を与えています。
そんな信長が残した「名言」について。
「是非に及ばず」
本能寺の変において、腹心の部下であった明智光秀が謀反人であったと聞いた信長の言葉。この言葉は言われたとされる時が時だけに真偽は怪しいのですが確かに信長らしい。
言葉の意味はそのまま取ると「是非を論じることもない(いいか悪いかいうまでもない)」という意味ですが、その後に省略されている部分については諸説があります。「すべては自分に非があるのだ」や「乱世の定めだ」「今さら考えたところで結果は変わるまい」などなど。どの説をとっても、客観的な事実を受け止めて信長という大スペクタクルに自ら幕を引いた、合理的な性格表した言葉ではないかと思います。
「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか」
一番有名な言葉かもしれません。これは信長が好んで歌い舞った幸若舞の『敦盛』の一節です。敦盛とは平敦盛のことで、平家一の勇とされていました。敦盛についてもたくさんの書籍がありますが、この人の伝奇も面白いです。私は「修羅の刻」で描かれている敦盛像が好きなのですが、この敦盛と源氏方の熊谷直実との一騎打ちを描いた舞曲が『敦盛』です。
この部分は「人間の五十年(生涯)は天に比べたら、夢や幻のように一瞬ではかないものである。この世に生まれ、滅びないものはいない」という意味で、この作品が作られた当時の無常観を強く表しています。信長は、そうした人生の短さ儚さ、この世の移り変わりの激しさに強い共感を得て好んでいたのではないかと思います。短い人生だからこそ、全力で駆け抜け、その結果に動揺しない。そんな信長の人生観を端的に述べたものかもしれません。
「立って半畳、寝て一畳、天下とっても二合半」
じつはこれも信長の言葉と言われています。こちらも真偽は不明ですが。名著?「子連れ狼」にも出て来る言葉です。人間に必要な食と住について述べたもので、「人間に必要なスペースは立っている時で半畳、寝ているときでも一畳あれば十分である。そして、生きていくのに必要な糧はどんなに出世しても一食米二合半である。だから、あまり大きな欲を持つな」という戒めの言葉です。畳の広さに関してはわかりやすいですが、「二合半」についてはちょっとわかりにくいかもしれません。まず、二合半がどれくらいの量か、ということがイメージしにくいかもしれません。一合の「ごはん」は一般的な家庭で使われている茶碗で二杯半くらいと考えていただけるとよいと思います。
ということは、二合半は茶碗六杯半・・・
おいおい、一回の食事でそんなに食べられないよ、と思ってしまいます。でも、実は江戸時代の初めごろはそれくらい食べていたのです。江戸時代までは日本人の食生活は「一汁一菜」という言葉が今でも残っているように副食(おかず)が大変質素であったため、米をしっかり食べる、というのが基本的な食生活でした。一菜といっても、野菜の煮付けがついたりする程度なので、ほとんど米と汁の食事になります。「おかず」がほとんどないので、腹を膨らませるためにも米はしっかり食べなければならなかったわけです。とはいえ、三度三度の食事で茶碗六杯も食べることはできません。
実はもう一つ訳があります。日本の食生活は江戸の前期まで一日二食が一般的でした。生活リズムと食事の準備の手間等からも一日二回の食事で済ませたわけです。なので、現在に当てはめてみれば朝ご飯を食べたら、次は夕方まで食事できません。しっかり食べておかなければいけないわけですよね。文献によれば一日の米の摂取量は三~五合だそうです。よく食べる人で一日五合食べたとしても、一回の食事の量は米二合半までだよ、という訳です。このあたりが分かれば「二合半」も納得できるかと思います。さすがに、これが三合半や四号半だと一回の食事が茶碗約九~十杯になって毎食が大食大会になってしまうから無理かと思いますが・・・。
天下を手中に収めようとした信長の言葉とは思えないかもしれませんが、それくらいの割り切りがあったからこそ、天下統一に王手をかけることができたのかもしれません。
今日参加した稽古はとても勉強になりました。
身体全体を一つにして全身の力で相手を制する。
力と言っても筋力ではなく、身体全体の意識を一つにすることによって、体重全部が作用点にかかることになるわけです。
そのため、腕力は必要なく推進力(平たく言えば歩く力)がそのまま相手にかかる力となる。
すごく理にかなった稽古でとても勉強になりました。
とはいえ、それを全部やるには、常に自分の正中線や軸と重心を意識し、同時に相手の力の流れも意識する必要があります。
今日の稽古では転換はやりませんでしたが、今日の内容に動きを加えるとより複雑になるわけです。
まだまだたくさん稽古せねば。
合宿も終わり夏のメインイベントは終了。
ということで、まだ決まっていない夏の息抜きを求めてネットサーフィン。
鵜飼なんかもいいかな、と色々検索していたら「岐阜城」のページに。
城マニアとしては、如何ともしがたい性(さが)で当初の目的を忘れてネット漂流者に。
岐阜城は元の名を稲葉山城といい、金華山という山のてっぺんに立っています。
もともとは斎藤一族の居城だったものを織田信長が奪って岐阜城と改名したのですが、織田信長の話はまた別の機会にすることにして、この城はとっても面白いのです。
まずこのお城は戦国時代の居城で、敵から攻めにくいように山のてっぺんに建てられています。
金華山は標高300mくらいなので、山としては登山家には全く魅力のない低い山なのですが、この上に城を建てるのですから天守閣の高さは東京タワー並みということになります。
それがどうした、という人もいるかもしれませんが、東京タワーに階段で上ったことがある人ならわかるはずです。
大変なんだって!
この城を攻め落とそうとしたら、ビルでいえば50階分の階段を登って攻め込まなければならないわけです。城に攻め込む頃には体力は激減。
結局織田軍に攻め落とされてはいますが、大変だったんだろうな、と思います。
この城について私のおススメは「登山競争」
攻め込むのが大変なように作られたこの城には主な登り道として「ロープウェイ」「百曲り」「七曲り」「馬の背」の4ルートがあり、後になるほど登るのが大変になります。
私はこれまで10回以上登っていますが、その中で一番はやっぱり「馬の背」。
百曲りと七曲りは道になっていますが、馬の背は道とは言えない道です。しかも途中に「お年寄りと子供には無理!」という立て看板まで立っている配慮付。
いきなり、両手両足を使わないと登れない山道があり、「これこれ、ここから織田軍は攻めたに違いない」と歴史ファンにはたまらない経験です。
自分一人でタイムアタックも楽しいですが、やはり楽しいのは友人と別ルートで登山競争。
ちなみにどうやっても、ロープウェイには勝てないのですが、他のルート間ではいい勝負になります。
普通城といえば「中や外観を見るもの」ですが、この城は「登る」ことが楽しめるとても珍しくて楽しい城です。
天守閣まで登るとそこには濃尾平野が一望できる絶景が待っています。
こちらも是非晴れの日に行ってみて下さい。
あ、雨や雨上がりには「馬の背」は厳禁です。かつてチャレンジして悲惨な目にあいました。
みなさんも是非一度チャレンジしてみて下さい。
今日は少人数で稽古しました。
久しぶりにとっても少なくて、道場を始めたころを思い出しました。
と、ここまで今日の昼過ぎに書いたのですが、アップしていなかったらまた先を越されて単なるパクリ日誌になってしまいました。むむむ。
「先んずれば人を制す、後るれば則ち人の制する所と為る」というやつですね。
今日は白帯の子どもも少ないので、ちょっと難しめの体捌きを練習してみました。
裁き方と流れによってその後の技の展開は変わってきます。
同じ攻撃に対して、同じように動いても相手との身体の位置関係や手の動きなどでその後に可能な(合理的な)身体の動きや技は変わってきます。
そんなことを考えてもらいながら稽古をしました。
説明する際には、足はこのあたりとか説明するのですが、実際には相手によって相対的に位置関係が変わってきたり、流れの中でやらなければいけなかったりするので理論よりも体得が必須になるのですが・・・。
とはいってもやっぱり説明があった方が自分の課題がはっきりわかるようになると思うので、説明と反復稽古の両方を大切にしたいと思っています。
今日はいつもより説明がわかりやすかったのではないでしょうか。
子どもの稽古についていつも悩むこと。
子どもの型稽古のやり方です。
いつも感じていることですが、子どもはとても吸収力が高いので、稽古したことはすぐに覚えてしまいます。
できるだけいろいろな技ができるようにバリエーションを増やせば、その分だけたくさんの種類の技ができるようになるのですが、一方で雑になってしまうところもあります。
雑な形が身についてしまうと、修正はなかなか大変です。吸収力の高さは「身体の芯に染みこむ能力」なので、一旦染み込んだ色を抜いて新しくするにはかなりの労力とやる気を必要とします。
特に中学生くらいになると心も身体も大きな転換期になるので、ただでさえ変化する自分の身体を持て余すのに、そこに身体の使い方の矯正をするのはかなりの負担です。加えて精神的な転換期で自尊心も大きく出るころなので、自分の培ってきたものを再構築するのは大変でしょう。
大学生くらいになればそれらの時期は過ぎるので、やりやすくなるのでしょうが、そこまで待てないという気持ちもあるでしょうからなかなか悩ましいところです。
というわけで、どれくらいの割合・頻度・内容・意識で型稽古をやるかはいつも悩んでいます。
今日の稽古のテーマは「形」
しばらくこのテーマで稽古しようかな、と思っています。
白帯の人たち(といっても5人もいるので多いのですが)には身体づくりを徹底的にやってほしいのですが、そろそろ技の形も覚えてもらわなければ、ということで技の形を覚えることをテーマとして稽古しました。
少し多めに技をこなしながら、基本となる動きを反復練習することをコンセプトに、できるだけ初動が同じか関連付けられた技を組み合わせました。
一本ずつの技の時間を短くすると、なかなか覚えられません。
だから、身体による反復だけでなく理屈でもなんとなく覚えておけるように、と考えて稽古したのですがどうだったでしょうか。
このところ、子ども達も自主稽古がとてもしっかりしている気がします。
それぞれが「自分のやらなければならないこと」と「自分のやりたいこと」をしっかりと持ちながら稽古してくれます。
中には一つのことを徹底的にやり続ける子どももいます。
個人的にはそんなマニアックな稽古をする子どもの将来に「ニヤリ」です。
で、今日は技もたくさんやったし、技を列挙しやすいので、さくっと稽古日誌を書こうかなと思ったら、先を越されました。
よこしまな気持ちはいけませんね。反省。
今回は相対速度について考えてみたいと思います。
相対速度とは単純に考えれば自分と相手の速度の比です。
例えば自分の速度が秒速3mで、相手の速度が秒速2mだとします。
二人がこの速度で同じ方向に動けば、自分から見た相手の速度は秒速1mに見えます。
二人がこの速度で反対に動けば、自分から見た相手の速度は秒速5mに見えます。
ここまでは、比較的考えやすいのですが、実はこの理論だけでは相手を制することはできません。
というのは、相手を制するためには絶対的に相手より先の場所にいなければ(あるいは先に動いていなければ)いけません。
とすれば、結局は相手より早い速度で動かなければならないという結論になります。
しかし、それができないから剛術をあきらめたのですから、この理論「だけ」では相手に先んずることはできません。
そこで、どうしたら自分より速い者より遅く動きながら、早く制することができるか考えなければなりません。
ここから先が柔術での相対速度だと思います。
柔術における相対速度は「相手を制している」という結果から逆算することで導き出される動きの理論だと思うわけです。
今年の合宿の一番の感想は「涼しい!」
もちろん運動すれば汗はかきますが、何もしなければ全く汗をかきません。
今回参加の2歳のちびっこは途中でおねむになって寝ていましたが、なんとも爽快な寝顔でした。
「空調」の効いた最高の環境で稽古ができました。
午後の稽古は予定通り、「一人一技」にしました。
私と武はやらずに、全部で8人が一つずつ。
普段私だけでやっているとどうしても偏った技になりがちになります。
また、重視する点や悩んでいる点もいろいろな人がやることで、違った切り口から技の稽古をすることは楽しいです。
ということもあり、午後の稽古では極力口は出さずにともかく色々な人と稽古してもらう、という形をとりました。
おかげさまで自分もたくさん稽古できました。
具体的にやった技はきっと副館長代理補佐さんがアップしてくれると思いますが、学生の技は彼ら自身が説明していた通り普段のうちの稽古とはコンセプトが違うので、参考になったと思います。
普段かかっている技がなかなかかからなかったりすることも、惰性を排除する意味でいいですよね。
後半は剣ができる人が多いこともあり、全員剣の稽古ができました。
普段はほとんど剣の稽古ができないので、初めて剣を握る子もいました。
とてもいい稽古ができてうれしかったです。
個人的には私自身がうまくなった、と褒められたことも嬉しかったです。
やっぱりまだまだうまくなりたいですから。
今日は夏合宿初日です。
朝一で名古屋を出発して、道場に到着したのは10時。
到着して早速稽古しました。
今回は東京から8名、関西から1名参加してくれました。
総勢で29名。参加してくれた皆さんありがとうございました。
とりあえず準備運動で、今回参加してくれた学生に四股をお願いしたところ、大人全員撃沈。
うーん、さすが元主将。
その後体転換を500回。
これで子どもたちが撃沈。
さっそく合宿らしくなってきました。
いろいろ言うことはできますが、やっぱり合宿はこの疲労感と達成感がなければ。
午前は私とたけで交互に技を出しました。
名古屋の人達にとっては、普段やっていない技も多くてとても刺激になったと思います。
道場は風通しもよくて快適。
2時間の稽古がみっちりできました。
最後には剣もしっかり稽古できました。
うーん、大満足。
午後の稽古についてはこの後で。
さあ、今から花火だ。
名古屋市緑区、天白区、東郷町、東京都文京区、神奈川県伊勢原市の合気道道場