下天のうちをくらぶれば02

岐阜城の話に続いて今回は織田信長のちょっとマイナーな話です。

織田信長といえば、戦国の英雄(あるいは梟雄)としてその足跡は誰でも知っています。
が、その破天荒とも劇的ともいえる人生ゆえか、彼が発言した言葉の多くが周囲の人や後世の人につよい印象を与えています。
そんな信長が残した「名言」について。

是非に及ばず
本能寺の変において、腹心の部下であった明智光秀が謀反人であったと聞いた信長の言葉。この言葉は言われたとされる時が時だけに真偽は怪しいのですが確かに信長らしい。
言葉の意味はそのまま取ると「是非を論じることもない(いいか悪いかいうまでもない)」という意味ですが、その後に省略されている部分については諸説があります。「すべては自分に非があるのだ」や「乱世の定めだ」「今さら考えたところで結果は変わるまい」などなど。どの説をとっても、客観的な事実を受け止めて信長という大スペクタクルに自ら幕を引いた、合理的な性格表した言葉ではないかと思います。

人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか
一番有名な言葉かもしれません。これは信長が好んで歌い舞った幸若舞の『敦盛』の一節です。敦盛とは平敦盛のことで、平家一の勇とされていました。敦盛についてもたくさんの書籍がありますが、この人の伝奇も面白いです。私は「修羅の刻」で描かれている敦盛像が好きなのですが、この敦盛と源氏方の熊谷直実との一騎打ちを描いた舞曲が『敦盛』です。
この部分は「人間の五十年(生涯)は天に比べたら、夢や幻のように一瞬ではかないものである。この世に生まれ、滅びないものはいない」という意味で、この作品が作られた当時の無常観を強く表しています。信長は、そうした人生の短さ儚さ、この世の移り変わりの激しさに強い共感を得て好んでいたのではないかと思います。短い人生だからこそ、全力で駆け抜け、その結果に動揺しない。そんな信長の人生観を端的に述べたものかもしれません。

立って半畳、寝て一畳、天下とっても二合半
じつはこれも信長の言葉と言われています。こちらも真偽は不明ですが。名著?「子連れ狼」にも出て来る言葉です。人間に必要な食と住について述べたもので、「人間に必要なスペースは立っている時で半畳、寝ているときでも一畳あれば十分である。そして、生きていくのに必要な糧はどんなに出世しても一食米二合半である。だから、あまり大きな欲を持つな」という戒めの言葉です。畳の広さに関してはわかりやすいですが、「二合半」についてはちょっとわかりにくいかもしれません。まず、二合半がどれくらいの量か、ということがイメージしにくいかもしれません。一合の「ごはん」は一般的な家庭で使われている茶碗で二杯半くらいと考えていただけるとよいと思います。
ということは、二合半は茶碗六杯半・・・
おいおい、一回の食事でそんなに食べられないよ、と思ってしまいます。でも、実は江戸時代の初めごろはそれくらい食べていたのです。江戸時代までは日本人の食生活は「一汁一菜」という言葉が今でも残っているように副食(おかず)が大変質素であったため、米をしっかり食べる、というのが基本的な食生活でした。一菜といっても、野菜の煮付けがついたりする程度なので、ほとんど米と汁の食事になります。「おかず」がほとんどないので、腹を膨らませるためにも米はしっかり食べなければならなかったわけです。とはいえ、三度三度の食事で茶碗六杯も食べることはできません。
実はもう一つ訳があります。日本の食生活は江戸の前期まで一日二食が一般的でした。生活リズムと食事の準備の手間等からも一日二回の食事で済ませたわけです。なので、現在に当てはめてみれば朝ご飯を食べたら、次は夕方まで食事できません。しっかり食べておかなければいけないわけですよね。文献によれば一日の米の摂取量は三~五合だそうです。よく食べる人で一日五合食べたとしても、一回の食事の量は米二合半までだよ、という訳です。このあたりが分かれば「二合半」も納得できるかと思います。さすがに、これが三合半や四号半だと一回の食事が茶碗約九~十杯になって毎食が大食大会になってしまうから無理かと思いますが・・・。
天下を手中に収めようとした信長の言葉とは思えないかもしれませんが、それくらいの割り切りがあったからこそ、天下統一に王手をかけることができたのかもしれません。

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