得手と不得手

何においてもそうだと思いますが、合気道や柔術にも得手々々というものがあります。それは、他の人よりも技術的に未熟であってもても、この技や動きだけは得意である(勝っている)ことがあったりします。その人の体型や性格など生まれながらの要素が大きく影響するためだと思います。
もちろん、かなり上級者になるとどんなこともそれなりにできるようにはなるのですが、上級者にとってやはり得意不得意はあります。したがって、本来その人が苦手なものを「それなりに上級者らしく」できているとすれば、その陰には相当の鍛錬があるはずです。
とはいえ、やはりどうしても自分の得意なものの方が追究もしやすく、より高いレベルまで達することもできるので、稽古を続けているとどうしても自分の得意な技や動きを中心にまとまっていくのは仕方がないと思います。
これに対して初心者は自分が何が得意で何が苦手かは全くわかりません。わかったら初心者とは言えないでしょう。なので、どんなことでも取り入れて稽古することが大切だと思います。その上で、上級者に自分のよいところを指摘された場合はそれが自分の得手々々だと思って稽古してよいと思います。
合気道の道のりはとても長いので、まず上達するためのきっかけを見つけることは稽古の道標となると考えます。
ある程度稽古を積んだ中級者は、得手々々について二つの点に注意するべきだと思います。一つは、自分自身が得意なことばかりやっていないか、という点です。もちろん、得意なところを伸ばすことで自分の苦手なところが明らかになったり、苦手を克服するヒントになる場合も多々あるので、得意なものは伸ばすべきですが、苦手なところを全く鍛錬しないと非常にバランスが悪くなります。
合気道や柔術ではそのバランス意識がとても重要なので、自分の得意と不得意を理解しつつバランスのとれた稽古をすることが大切です。
もう一つは、どんな達人や先生でもやはり得手と不得手があるということです。よほどのことがない限り万能という人はいないと思います。その先生の得手が何であるかを見極めながら、稽古の中で可能な限りその先生ももっとも得意な技術や理を学び取ろうとすることが効率的な稽古に繋がると思います。
ちょっとずるいかもしれませんがどうせ稽古するのであれば、できるだけ早く上達したいのが人情でしょう。そうであれば、たくさんの先生からそれぞれの得手を学び取ろうとする姿勢はよい意味で貪欲だと思います。
そのためにも機会があれば色々な先生の稽古に参加して指導を仰ぐことはよいことだと思います。とはいっても、その先生の得手が何であるかを見る目が養われていなければそんなことはできないので、やはり難しいのですが(笑)。

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問ふ。能に得手々々とて、ことのほかに劣るしても、一向上手に勝りたるところあり。これを、上手のせねば、かなはぬやらん。また、すまじきことにてせぬやらん。

 答ふ。一切のことに、得手々々とて、生得得たるところあるものなり。位は勝りたれども、これはかなはぬことあり。さりながら、これもただ、よきほどの上手のことにての料簡なり。まことに、能と工夫との究まりたらん上手は、などかいづれの向をもせざらん。
 されば、能と工夫とを究めたるして、万人がうちにも一人もなきゆゑなり。なきとは、工夫はなくて、慢心あるゆゑなり。そもそも、上手にも悪きところあり、下手にもよきところかならずあるものなり。これを見る人もなし。主も知らず。上手は名をたのみ、達者に隠されて、悪きところを知らず。下手は、もとより工夫なければ、悪きところをも知らねば、よきところの、たまたまあるをも、わきまへず。されば、上手も下手も、たがひに人にたづぬべし。さりながら、能と工夫を究めたらんは、これを知るべし。
 いかなるをかしきしてなりともよきところありと見ば、上手もこれを学ぶべし。これ第一のてだてなり。もし、よきところを見たりとも、われより下手をば似すまじきと思ふ情識あらば、その心に繋縛せられて、わが悪きところをも、いかさま知るまじきなり。これ則ち、究めぬ心なるべし。また、下手も、上手の悪きところもし見えば、上手だにも悪きところあり。いはんや初心のわれなれば、さこそ悪きところ多かるらめと思ひて、これを恐れて、人にもたづね、工夫をいたさば、いよいよ稽古になりて、能ははやく上がるべし。もし、さはなくて、われは、あれ体に悪きところをばすまじきものをと、慢心あらば、わがよきところをも、真実知らずしてなるべし。よきところを知らねば、悪きところをもよしと思ふなり。さるほどに、年はゆけども、能は上がらぬなり。これ則ち、下手の心なり。
 されば、上手にだにも情慢あれば、能は下がるべし。いはんや、かなはぬ情慢をや。よくよく公案して思へ。上手は下手の手本、下手は上手の手本なりと、工夫すべし。下手のよきところをとりて、上手の物数に入るること、無情至極の理なり。人の悪きところをみるだにも、わが手本なり。いはんやよきところをや。「稽古は強かれ、情識はなかれ。」とは、これなるべし。

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