私の武道観と道場の武道観

当たり前と言えば当たり前ですが、私自身が抱いている武道観があります。
「武道とはかくあるべきだ」「こういうものを武道という」という考え方です。
ここでは細かくは述べませんが、これまでもずっと根本的には変わらない武道観に基づいて稽古を続けてきました。

なんでこんなことを書いているんだ、といえば先週末にある先生とお話する機会があって、そこで武道に関する考え方をお話する機会があったからです。普段あまり道場ではそんな話をしないのですが。話をする中で、久しぶりに自分自身の武道観を見つめなおすきっかけを頂いて、家に帰る道でいろいろと考えました。

道場を立ち上げてからはや2年半。アッという間に仲間も増えて日々楽しく稽古できています。
ただ、これは最初からずっとスローガンとして掲げてきたように名古屋至誠館は「みんなの道場」であって「私の道場」ではありません。
言い換えれば私の武道観の下に皆が一つの考え方に従って稽古をする場所だとは考えておりません。
もちろん、道場主の武道観を絶対的に学ぶ道場を否定するつもりは毛頭ありません。そういう道場の方が良い点も非常にたくさんあります。ただ、私にはそういう方針・主義は取れないというだけです。
なので、私と異なる武道観で合気道に取り組む門人がいても大歓迎ですし、それを否定する気はありません。合気道に何より精神性を求める人、技術の追究を求める人、合気道を通じて仲間と連帯感を紡ごうとする人、皆がそれぞれの武道観に従って稽古をすればいいと思いますし、それができる道場であって欲しいと思っています。

そして、それゆえに私自身の武道観が道場の主流にならないことから、時々悩むこともあります。私自身はできる限り自分の武道観を強調しないようにしています。立場上私が(婉曲的な言い方であっても)自分の武道観を強調すれば、その影響力は大きくなってしまいます。それは私の望む道場のあり方に反するので、普段は最低限の(別の言い方をすれば同じ場所で稽古をするのに不可欠な程度のルール)としての武道観しか話さないようにしています。

道場が大きくなって、皆がそれぞれの目的で稽古できるようになったことは、その中で改めて私自身の稽古を見つめなおす必要があることを意味します。良い意味で道場がしっかりしてきたからこそ生まれる悩みだと思っています。
とはいえ、私自身は道場主であると同時に、自分自身の合気道を目指すものでもあります。
門人の皆さんのお力添えをお借りしつつ、自らの武道も目指すという段階に来たのかな、と改めて思ったので、こんな風に書いてみました。

「私の武道観と道場の武道観」への2件のフィードバック

  1. 自分の武道観、、、
    あまり真剣に考えた事がありません。
    性格的に興味をもって良さそうなものに
    すぐに喰いつくタイプです。
    機会があれば先生はじめ皆さんの武道観を
    聴いてみたいものです。

  2. 森の中の生物多様性の話の様ですね。
    焼け野原から実のなる広葉樹の森になり、
    生物の種が最大になる。
    その内、排他的な一つ種が極相を作って
    組織の多様性が無くなり、
    全部が深い山の様な杉檜ばかりの針葉樹林になる。
    やっぱり多様性ですよね。

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