この手のことを書くのはすごく久しぶりな気がします。
普段の稽古ではできるだけたくさんの技や色々な術理や体の使い方を稽古しています。
また私の流儀として、技のスタイルを固定しないので、色々なゲストの方にその人のオリジナルで稽古をしてもらうことも多いです。
ただ、私自身の技の基本的なスタイルは学生時代からずっと師匠に教わった形にあります。
接触の瞬間を何よりも重視して、当身をしっかりいれて相手を崩し(制し)しっかりと技をかけます。
実際に先生の稽古に参加したことがある方は見れば明らかな、非常にわかりやすい形の合気道です。
こう書くと、「じゃあ普段やっている稽古はなんだ?」といわれるかもしれません。
でも普段の稽古はとても大切だと考えています。
先生に技をかけていただいたことがある人はわかると思いますが、先生はほとんど力を使いません。
考えてみれば現在87歳になられているわけですし、物理的に力があるはずがありません。
にも拘わらず圧倒的な力を感じます。
それは技の精度が圧倒的に高いからです。
しかし、先生の技には大きな欠点があります。
もちろん、先生の技に欠点があるわけではなく、その見た目にですが。
それは、先生は力を使われないが、見た目が同じ(先生がかけているのと同じように見える)ようにするために、弟子が力任せで技をかけてしまうことがあるのです。
相手が初心者であったり、きちんと受けてくれる人であれば、これでも技は十分かかります。
けれどもそんな技をやっていてはいつまでたっても上達はしません。
例えば呼吸投げで、受けの手が切れそうになったときには先生も手を掴みますが、それは手の繋がり(結び)が切れないようにするためであって、決して相手の手を掴んで放り投げるようなことはしません。
でもそれを見た弟子の中には勘違いして掴んで投げればよい、と思ってしまう人もいます。
そうすると、早い段階で技の上達が止まってしまいます。
同じように手が触れていても、意識が全く異なれば、全く違うものになると思います。
また、先生の足はどっしりと動かずにいるように見えますが、実はこれも大きな間違いです。
長年の修練で、理想的な位置に迷うことなく移動しているのでほとんど動いていないように見えるのです。
実際には非常に大きくかつ柔軟に下半身を使われています。
私が普段の稽古で足を動かすことと、柔らかい動きを重要視するのは、目的とする技をきちんとかけることができるようになるためです。
言葉を分けるのであれば、技の練習に対して、体を練る鍛錬と言ってもよいかもしれません。
「技の形」と「身体作り」の二つは両輪であってどちらが欠けてもいけないと思っています。
一見全く別のことをやっているように見えるかもしれませんが、自在に動く身体を作り上げて、それを技と結び付けていくことで見た目だけでない「正しい」技ができるようになると考えています。