「自分の合気」を目指して2

私はそれぞれ違った目的をもって合気道の稽古をするので構わないと思っています。
では、その上でどうやって自分の合気道を作り上げていくかですが・・・

もし、単一の目的で統括された道場であれば、普段の稽古においても、また講習会等で学んだことであっても、みな統一の解釈をもって稽古に取り入れた方が合理的です。
むしろ、それぞれが勝手に自分流を求めて道場の方針とする稽古以外のものを取り入れるのは、自身にとっても道場にとってもマイナスにしかなりません。
何よりも道場の指導者の先生の教えを第一に(以上に唯一に)忠実に学ぶべきだと思います。

しかし、個々の目的が違う道場では反対にそういう稽古はできません。
単一の稽古を行なってしまうと、門人の中には自分の目的が全く達成できなくなってしまう人が出てくるからです。

では、稽古を行なう方はどうするか。
実はそんなに難しくはありません。仮に道場の目的が単一だろうがそうでなかろうが、指導者の考え方・技は結局一通りしかないわけですから、自分の考え方と稽古を行なうしかありません。
つまり道場のスタイルがどんなだろうが、結局指導者にできる稽古スタイルは一つ、ということです。

では、門人はどうするのか?
普段の稽古が一通りしかない以上、その稽古をもとに自分の合気道を作り上げていくしかありません。ただし、稽古は一通りでも目的が複数あるので、稽古をどのように解釈するかは個人に委ねられることになります。
別の言い方をすれば、稽古として与えられるものはみな同じですが、それを糧にどのように成長するかは個人次第、つまり基本となる部分から自分で作り上げていくというわけです。この方法は単一の目的で導かれるのと異なってある意味放置されるわけですから、自分の形を作り上げていくのに非常に長い時間がかかります。

ここまで書けば気が付かれる方もいるかと思いますが、名古屋至誠館でできるだけゲストの人の稽古や講習会への参加を進める理由は、「できるだけ色々なスタイル」を学んでもらうためなのです。
普段の稽古が一通りしかないことは、例えれば毎日が肉や魚に偏った食事をするのに近いと思います。食べ物でいえば、「これだけ食べればよい」という食品はありません。いろいろな食品すべてに必要な栄養素が含まれていて、そのバランスが大切なのです。
とすれば、普段の稽古以外の稽古を経験することで、普段摂取することのできない要素を吸収して、自分の合気道を作り上げる糧にしてもらうことが私のできることの一つだと考えるのです。
もちろん、色々なものを食べれば消化不良になることもあります。また、他の合気道や稽古、武道に心惹かれる時もあると思います。そんなことが一切ないとしたらそれは人間ではないような気がします。
その際は、(消化剤として偏っていることは承知の上で)その人の目指すものにむけてどういう稽古をしたらよいのか一緒に悩むのが私の役割だと思っています。人間は雑食動物なので、稽古においても時に色々なものにチャレンジしてみてよいのではないかと思います。

そういう経験や姿勢そのものが同時に、自分らしい合気道を作り上げていく原動力にもなるのではないかと思います。

なので、どんどん自分のやってみたいことをやってみて、それを頑張って消化しようとしてみて下さい。その消化を手伝ってくれるのが仲間だと思います。
食べ物でも咀嚼はゆっくり数多く、といわれますよね。
慌てる必要はありませんよ、Noriさん。まだまだ寿命は長いです。多分。

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