4日の稽古は仕事の都合で、後半のみの参加となってしまったので、稽古日誌がかけません。(TT)
稽古日誌を書きましょうといっておいて、自分がかかないのでは申し訳ないので、代わりに稽古で話をした「握る」ことについて。
よく技の説明において「握る」「握られる」「握り方」という言葉を使います。これらの言葉の使われ方からもわかるように、一見すると握るという言葉は能動態として使われれる言葉であるように見えます。
もちろん、相手の(手首などを)掴む気もないのにいきなり握ってしまうことはないので「握る」という行為は意識的な行為であることに間違いはありません。
しかし、「握る」という動作を考えると、実は非常に無意識に近い動作であることに気がつきます。ここでは行為と動作という言葉を使い分けていますが、握るという行為を具体的に行う手順を握るという動作と定義しるのでそう読んで下さい。
私たちは頭の中で相手の手を握ろうという意思決定プロセスまでは意識的に行いますが、意思決定に基づいて作用手順を行う際には意識は働きません。
すなわち握るという動作は非常に本能的なプロセスであり、ほとんど無意識に行われる動作なのです。
稽古の際に話したと思いますが、攻撃において私たちは先の意志決定プロセスにおける身体への命令に際して一定の条件を付して握り方を決定し、本能的な動作を発動させるのです。
この「条件を付す」ことについてはここでの本題ではないので割愛します。
さて、本能に支配された動作は人間が動物である以上非常に制御困難なのです。もちろん、人間は普通の動物と違って非常に高度に知性と理性が発達しているので、訓練によって一定の本能的動作については発動しないようにトレーニングすることも可能かもしれません。しかし、もし握るという動作について本能から理性へ支配権の変更をはかったら大変なことになります。もし、本能的に握らなくなったら、例えば鉛筆を握る際にもそれぞれの動作の手順(人差し指を動かして親指と同時に対象物に接触させ、左右から同等の圧力をかけて一定のところで力を止めて・・・)とすべての過程を「いちいち頭で命令して」行わなければならなくなります。
そんなことは不毛ですし、人間の動作の中でも根幹的な動作である握るという行為を意識で支配することはほとんど不可能です。
続く・・・